生命に打ちのめされた話〜ラストパイを観て〜

◆最初に
まず大前提として、私は感じることが大変苦手で基本的に考えることしかできません。
そしてソリストをやりきった織山さんにもほとんど触れていません。そちらへの気持ちや思いだったりは今後のコンサートや別の舞台で回収されるでしょう。

今回観ることができたのは東京の2公演。自分の中でぐるりと回ったものだけを文字にしております。


◆解釈

・全ての命

暗闇に響く振動はもう記憶にもない母親の胎内を思い出すようだった。
"何もない"から突如始まった宇宙は、誰の意思でもなく当たり前に今まで時間を重ねてまだ膨張し続けている。
そんなことを掠めながら明転した場所ではすでに命が踊り始めていた。
目を凝らさないといけないような薄暗さで、確かにはっきりと命がそこにいる。円や螺旋を描くようにずっと踊り続ける"そのもの"にどの命も触れることができない。
明らかに他に影響を与えつつ自身は何者の影響も受けずに、鼓動にだけ準じて踊り続ける。
周りの様相が変わっても、照らす光の色や強さが変わっても、誰が倒れても。
そんな中舞台上の全ての命が静止して、その間を駆け回る小さな生き物。自身が止まってしまうほどのエネルギーを送り出して"命"を甦らせる。
命が絶えない限り、生命もまた途切れないのだなんて意味のわからないことを思った。

心臓は檻だ。命がどれだけ増えようが活動が激しくなろうが、旋律が自由に走りだして加速しきることはない。
生物の心拍は加速しきったら、きっと身体を超えて命は自由に飛び出してしまう。そのぎりぎりまで、命の淵に立ちながら動きを止めないソリスト
踊りに呼応するように音量や音圧を上げながら、はみ出そうになりながら、それでも鼓動は飛び越さないミュージシャン。
対角で血液が巡る三角のリズムの中で、全ての命が生きていた。
ソリストから生まれる回転も螺旋も、分子構造やDNAから惑星の運動まであらゆるスケールを想起させるような途方もない舞台。広い世界で我々は生きている。


・「踊りそのもの」

雑誌で織山さんも言っていたけれど、コンテンポラリーと言っていいのかもわからないような踊り。
ダンスや舞踏の知識がない私には普段目にする踊りというより形式的、儀礼的な動作の連続に見えた。
「コンテンポラリーはどのダンスにも分類できない全ての踊り」「踊りそのものになりたい」は黒田さんの言葉だけど、ダンスとして一つの表現として磨き上げられたものでは踊りそのものを抽出するのは難しかったのじゃないかと思う。
根源的で原始的なエネルギーは芸術ではカバーしきれないのかもしれない。
美麗で格式立った、また大衆にわかりやすく加工された"娯楽"として愛でるための音楽や絵画は、あまりに雑音が多く核に触れることが難しい(個人の見解です)
踊りのジャンルに収まりきらない、はみ出て端切れになった全ての動作。身体の筋肉の関節の、生き物の動き。
人は、命は、なぜ踊らなくても生命活動が終わることがないのに"踊り"をするのか。そこに迫り切るためにあらゆる振り付けも装飾も人格も削ぎ落として、最後にラストパイの形になったのかと思った。


・人間と才能

ソリストに近付きすぎると動きを止めてしまう生き物たち。常人に収まらない突出したものに触れた時、確かに動きは止まってしまうかもしれない。
そして身の程も知らず才能に囚われる存在を「やっぱりな」と笑いながら群れに戻す群衆たち。その中にいてもたまに光が気になってまた動きを止める個がいたり。

それこそソリストをやりきった織山尚大を正面から見てしまった時、私も止まる。
自分も何かやりたい生み出したいと思ったところで、あまりにも"何もできなくて"ただ蹲ってしまう。
それでもあの輝きがまた見たいと、自分には眩しすぎるのがわかっていてもひたすらに向かい続けるのは抗い難い"興味"があるからだ。


・曲

先にも述べたけれど、シンプルに鼓動であろうと思う。一定のリズムを刻み続ける三拍子。観客の心臓に直接響く振動。

歌詞は少し聞き取るのが難しく、私もあまり掴めなかった。ただ食べ物の羅列だけは聞こえた人もかなりいると思う。最初はあまりよくわからなかったのだけど、繰り返しの中で「ラストパイは"死に損ない"」という話を思い出してゾッとするような感覚があった。
果物も肉も野菜も全て命であって、我々が普段食べるもの。同時にそれこそパイの具にもなりそうなもの。

それを認識した途端に目の前で踊るソリストが無慈悲なくらいに"ありふれた量産のパイ"に一瞬見えて背中が気持ち悪くなった。
何もかも超越した存在から見たらパイも人間も等しく"ただの何か"にしか見えないのだろう。それでも我々は他の命を食いながら生きている。自意識を持って何かを愛しながら、命を尊ぶことができる。


◆最後に

鼓動から始まって鼓動で、暗闇から始まって暗闇で終わる。全ての命の始まりからこの今までを圧縮したような舞台。
メビウスの輪のように終わることのない同じリズムを輪転機みたいに繰り返し、暗闇と暗闇は繋がってまた旅に出るのかもしれない。
ただ、終演の鼓動は客の一人一人の心臓に繋がって、今"ここ"にも帰っていくような。繰り返しの中でもあらゆるものを生み出すことはできるのだと思わされた。
あの舞台を続けるのは演者じゃなく、あのエネルギーを受けた私たちの"命"だ。ずっと巡り続ける生命の流れは舞台上だけにとどまらない。
死ぬまで生きようと改めて身が引き締まるようだった。




2023.3.28