空想科学劇『Kappa』と『河童』-第23号はどこへ行くのか-
はじめに
書かないつもりだったんですがあまりにもしんどくて書かざるをえないんですよねこんなの。
観劇された皆様におかれましては本当に、お疲れ様でした。
お恥ずかしながら『河童』は今回初めて読みましたし、ゲーテもニーチェも触っておりません。全体的にカスみたいな知識しかないので本当に原作を読んで、舞台を見て何を感じたのかのみになります。
ニーチェは読む予定ではあるのですがあれを落とし込むのにアホみたいな時間かかりそうなので今回は省きます。
原作はベースにするのみで、解釈はほぼ今回の舞台についてであるとさせてください。解釈が分かれるところもありますので。
全体的にブワッて書いたので言葉がなんか汚いです。
Twitterぐらいの汚さです。
説が三段構成になっているのでちとわかりづらいかもしれません。
全体的に言いたいことをドカドカ塗りたくっているだけなので理論のりの字もないです。
※今回は火の顔よりは感想寄りかもしれません
内容
◯6/8版
◇河童の国とは
・河童の世界
・行きと帰りの違い
◇登場人物について
・5人の河童と5人の白衣
・第23号とバッグ
・バッグとマッグ
・第23号とマッグ
・マッグの遺書
◇第23号が求めたものと行く末
・登場した河童たち
・手に入らないもの
・行く末
◯6/9版
◇ 第23号と河童の国と、人間の世界について(殴り書き)
◯6/8版と6/9版の違いについて
◇根本的な違い
◇細かい違いについて
・5人の立ち位置
・行きと帰り
◇第23号とは
・第23号の内面
・名前について
◯6/13版
◇芥川龍之介と『河童』の世界
◇色について
◇Smile
◯6/8版
◇河童の国とは
・河童の世界
原作を読んだ時、第23号さん思ったよりヤベエ人やなと思いました。精神病について詳しくないので基準は分かりませんが、ただの幻覚や作り話にしてはあまりにも詳細すぎるからです。
なぜあそこまで設定や各々の思想が細かく、なおかつ確固たるものなのか。それは第23号があの繰り返しの日常の中でずっとずっと頭の中で考えていた思考がそのまま反映されているからではないでしょうか。
河童の国は人間の世界とあらゆることが違います。第23号はその文化に新鮮に驚き、時に受け入れ、時には反発します。
彼の「こうであったらいいのに」がそのまま現れていたり、単に人間界の逆を空想し、それに対してどう思うのかを河童と問答したりもします。
河童の国は第23号によって、本当に理想の世界にすることだってできるはずなのですが。彼は理想で満たされた世界をそのまま享受することはしませんでした。そこには一々疑問があり、時に人間の世界と何が違うんだと結論付いたりもするのです。
実在するかで言ったら、全ての人間が行ける世界ではないと言う意味では実在はしないはずです。ただ、第23号の中には確かにその記憶が、出会った河童たちが存在していると解釈します。
実在しないから存在しないなんてナンセンスな、つまんねえ話はないです。彼があると言ったら彼の世界には存在するのです。
・行きと帰りの違い
第23号は河童の国にいる間、自分が第23号であることは忘れています。自分がまるで「普通」に生活する「普通」の人間代表であるかのように振る舞うのです。
行きは趣味の山登りで河童に出会って、帰りは自らの意思で帰ってきます。もし自分が置かれた環境と第23号という生活を前提にできていたら、帰りたいとは思わなかったかもしれないですね。
後悔をしないようにとバッグが釘を刺したのは、そういう意味もあったかもしれません。河童の国が人間の世界と変わらなかったとしても、受け入れてくれる仲間の有無は大きなものですから。
河童の国に行って5人の河童に取り囲まれる構図と、人間の世界に戻ってから5人の白衣に囲まれる構図。
同じはずなのに第23号の孤立感の対比が浮き彫りになって、ここの差が個人的にはかなりグッときました。
◇登場人物について
・5人の河童と5人の白衣
舞台では第23号は精神病棟もしくは何かしらの研究施設のような場所に入れられています。病院の場合であっても、患者は恐らく第23号のみとなります。
両脇の2人も患者である可能性はありますが、最後に彼を取り囲むシーンでは他の3人と立場が同等のような印象を受けるため患者でない方が自然な気がしました。
共に食事を取る2人と質問を投げかける1人、これは父と兄弟、母に見立てた擬似の家族ではないでしょうか。毎日家族と食卓を共にし、同じようなループを繰り返すことで治療をしていくような。重ねてになりますが全く詳しくないのでそういう治療法があるのか、それで効果があるのかも全く知らんです。
人間の世界にいる第23号の周りには常にこの5人しかいません。毎日毎日同じことを繰り返し、さらにあの精神状態だったらあの5人以外の顔がわからなくなってもおかしくはないのかなと思います。
また、よろしくない研究施設等の場合はそもそも生まれた段階であの5人しか知らないということも考えられます。
それらを踏まえると、河童が5人しか登場せず顔も全く一緒であることにも納得がいきます。どれだけ理想の世界だったとしても、彼には当てはめることができる顔がその5パターンしかなかったのです。
・第23号とバッグ
バッグは原作とは大きく異なり、最後に第23号が河童の国を出る際の老河童も兼ねています。
老人として生まれ、赤ん坊になって消えていく。そんな奇特な運命を背負った河童なのですが、だからこそ人間界と交わることができるのではないでしょうか。逆さまの存在である彼は、河童の国からしたら逆さである人間の世界に行くことができた。
この奇病はたまに発生し、また河童の国に来る人間も少数です。人間の世界に行き、人間に会うことができる河童はこの病を持った者だけだったのかもしれません。
そして第23号もまた人間の世界では大きく外れた人間のため、この2人が出会い、最後にバッグが迎えに来るのも必然と言えます。
・バッグとマッグ
バッグの病については隠し子云々の煽りから見ても伏せられていることがわかります。また、バッグは若く見えますが60歳くらいでマッグも年老いた河童です。
マッグは「天涯孤独」であるにも関わらず、「家族を捨てることができない」と言うのです。それが家族や結婚、子どもへの憧れの意味なのか実際の家族なのかまではわかりませんが。白衣の状態でも恐らく父子の関係を演じていることから、この2人は血縁関係として設定されているのかもとなんとなく思いました。
・第23号とマッグ
マッグは舞台でかなり大きな役割を果たしています。
第23号が人間の世界に帰るきっかけとなるのはもちろん、他にも引っかかったところがありました。
人間の生活や文化を笑う他の4人と比べ、マッグにはほとんどその様子がありません。また、あなたは河童でないからわからないと言ったり、逆さに世界を覗いてみたり。河童の生活のためには他の存在が必要だと言ったり。河童にとってはギャグですが、第23号が本気で考え込む本を書いたり。
人間の対極として配置された他の河童たちよりも遥かに人間というか、第23号の根本の疑問そのものに近い存在のような気がします。
都合のいい理想にストッパーをかけるような。自分を幸福だとした第23号に、マッグは幸福に見えますか?と投げ返します。
その疑問がいなくなってしまった。理想や空想ばかりが加速して、本来彼が探し求めていたものははっきりと見えなくなってしまったのではないでしょうか。
そして、第23号の理性の部分、慎重な部分に最も近い存在が河童の世界を拒んだことで、この世界の奇妙な点ばかりが浮き彫りになり信頼が多少揺らいでしまったのではと考えられます。
・マッグの遺書
こちら、聞いたもしくは読んだ時にあれ?と思いませんでしたか。第23号はそんな谷を通って河童の国に来たのではないでしょうか。世界の境界を越えて。
第23号が人間の世界を離れて河童の国に足を踏み入れたのと同じように、マッグもまた河童の国を自らの意思で離れたのです。
原作はさておき舞台上のマッグは、バッグに連れられ河童の国に戻った後の第23号自身ではなかったのかと思ったり思わなかったりするのです。
マッグを食べるシーンで、Smileのボーカルと伴奏を抜いた(多分)インストだけが流れます。なぜでしょうか。舞台の最後、第23号がバッグについていく時と同じ曲がなぜここでも流れる必要があるのでしょうか。
境界の越え方と曲と、ほぼ一致するこの2人は一体なんなのでしょう。別にマッグは実際に谷に向かったわけではありません。ではなぜあんな遺書を遺したのか。
かつて河童の国に迷い込んだ時の自分が記憶にあったからではないですか。またあの時の刺激を求めて、でも河童の国というこれ以上動けないところまで来てしまったから、自殺をするしかなかった。
それでも目の前の過去の自分に対しては逆さまにしたって同じだし、自分は幸せではないとは言うのです。同じ道を辿ってほしくなかったから。
そんなマッグの死だったからこそ、第23号を「我々」人間の世界に帰りたいという気にさせたのではないでしょうか。
また、遺書を舞台上そこまで関わりのないバッグに送ったのも、これならぎりぎり納得できるかなと思います。バッグは全て知った上で「マッグは孤独だった」と言うのです。
逆行して生きるバッグであれば、他の河童が持ち得ない記憶を持ったり時間遡行ができてもおかしくないのではと思うのです。
◇第23号が求めたものと行く末
・登場した河童たち
一応河童の国にも「普通」の河童はいて、そこに関する話も触れられてはいます。しかし第23号が仲良くなった河童というのは5人とも少し変わり者というか。恐らくあれが一般的な河童5人だったとしたらああはならなかったのではないでしょうか。
彼が仮に鬼の国とか、天狗の国を歩いたとしても同じだったはずです。どんなに人間と違う風変わりな世界であったとしても、彼は無意識の内にその世界の中でもはみ出した存在を求めるのです。
第23号の理想はニつあって、一つは社会そのものの決まり事に納得できるかどうか。もう一つははぐれ者でも受け入れられ幸せに暮らせるかどうかだったのかもしれません。
・手に入らないもの
第23号が原作と同じく精神病であった場合、彼は人間の世界では異常者です。しかし恐らく本来そこまで一人を好むタイプではありません。河童の国では積極的に交流をし、わからないものに対する好奇心も相当なものです。
人間の決まり事や息苦しさに辟易しつつ、どこかで受け入れてくれる存在を、この気持ち悪さを分かち合える存在を求めていたのかもしれません。
また、河童の国での彼は自分が普通の人間であるかのように振舞います。社交的ではつらつとして人当たりが良い人物像。
もしかしたら河童の国を訪れた青年自身も、第23号が思い描いた理想の自分の姿だったのかもしれないですね。
普段から人と交流をしているにしては、異言語ということを抜きにしても少しぎこちない部分もあった気がします。それは経験していないことはわからないからではないでしょうか。
彼にとってはそれこそが幸福で、河童の国の日常のような平和な時の流れを求めていた。もっと言えば、それらを手に入れた上でそれでも幸せになれるのかどうかを考えていた。
しかし、それは結局手に入ることはありませんでした。
先にも述べましたが、河童たちの言葉は全てもともと第23号の頭にあったものと考えられます。
逆さまの世界をああだこうだと歩き回り、考え、結局は何もかも違う世界であっても人間と同じだと。普通とはみ出し者は存在し、幸福は苦痛で平和は倦怠を伴い、しかしそれを羨まずにはいられないと、気付かないふりをすることはできなかったのです。
トックが家族を羨ましがるのも、マッグが追われる雄に憧れるのも、第23号自身がずっとずっと人間の世界で抱いていた感覚に他ならないのではないでしょうか。
河童の国にいる間は、彼自身よりもきっと河童たちの方が本来の第23号に近い存在だったのかもしれないと思います。
そう考えると彼はずっと理想の自分を演じながら現行の自身とひたすら問答をしているわけで、その世界に理想や安定を求めること自体が空虚というか。
理想の自分が存在する時点で今の自分は型落ちでしかないわけですから、人間の世界よりはもちろん居心地はいいでしょうけれど、彼の探すものはきっとどこにもないのだろうと思います。
そして第23号は幸福を求めつつ幸福になりたいわけでは恐らくないので、そこが落とし所になるのかもしれません。
・行く末
この舞台はSmileから始まってSmileで終わります。
加えて、医者か研究者かわかりませんが、白衣の一人がまた一からやり直しだと言うのです。「また」とはどういうことなのでしょうか。
河童と出会った彼は、最後バッグに連れられて永久にそちらにいることになったと考えると、ではこちら側に残った第23号はなんなのでしょうか。
バッグに連れられ河童の国に戻った時点で第23号は一度リセットされます。河童の国を知っている彼は人間の世界にもう戻ってこないからです。
これを精神的な死と捉えるかは人によると思いますが、青木さんがインタビューで河童は天使っぽいと答えていたのがなるほどと思いました。
彼はまた山登りの好きな青年として初めてバッグという河童に出会うのかもしれません。
河童の国に来た時に特に白衣の記憶がなかったということは、間に時間を挟まずラストシーンから冒頭バッグとの出会いまで地続きの可能性すらありますね。
ずっとずっと同じことを繰り返していく。それを嫌ったはずの彼自身がこのループから抜け出せない。個人的にはこちらの方が好きかもしれません。
バッグとの出会い(n回目)
↓ 一瞬
バッグと河童の国への別れ、発狂
↓ 1年間
河童の国に戻る、記憶リセット
↓ ?
バッグとの出会い(n +1回目)
◯6/9版
◇ 第23号と河童の国と、人間の世界について(観劇を終えての備忘録)
今日のラストの無音のシーンで誰かを抱きしめたの、あ、自分自身かもしれないって思ったんですよ。でも掴めなかったんですよ。一瞬バッグかもしれないとも思ったんですけどなんというか、違うかなって。
それで、ああ自分かってなって、顔を覆って。どこからどこまでが自分かわからない。あらゆることを考えすぎて、自分を追いすぎて自己が分裂している。顔が見えない。
で、さっき思ったんですけど。いやそもそもどっから?河童の国が頭の中なのはとっくにわかってる、わかってるけど違くない?最初の施設もじゃない?見捨てた5人が自分自身では?だから前後も何もわからなくなって呻くことしかできない。自身が会話すら放棄してしまったから。
最後にバッグと交わされる会話っていうのは、想像はできるけど何を言ってるかはわからない。その他を置き去りにして、より深淵に近い場所に向かっている気がする。
彼の中身の中には、河童の国に行くのが許せない存在がいるんだ。彼が彼なりに幸せになるのを許せない存在が。人間としての正義がなぜか存在している。
生まれたくなかった子どもは人間かもしれない。舞台上指されたのは彼自身で、原作での物言いというのはもっと直接的。第23号のことを指差してこいつが嫌いだという自分自身。
5人の河童と5人の白衣と、それ以外に顔を出す存在と。彼の中には何人いるんだろうか。多重人格ではない。同じ人格の中で異なる価値観と主義主張が傷付け合っている。ギリギリのバランスで立っていたものが崩壊して、それぞれの主張はまるでコントロールが効かない。気休め程度の拠り所ですらなくなってしまった。
そして、無音の踊り。施設が実在したら良かった。彼はちゃんと一つの柱を持っていて、彼がおかしくなってしまったのは施設のせいにできた。でも違う。ここにあるのは、ただ無音の中で狂っていく人間が一人。数十秒、たったそれだけの舞台だった。
◯6/8版と6/9版の違いについて
結局お前は何が言いたいんだ問題
我ながらこんがらがってきたので整理しますね。
まず、6/8時点でのループ説と6/9のまるっとごった煮説は全く別です。互いに前提にすらなりません。
◇根本的な違い
一見すると、ただ脳内のみでしか存在していないシーンが増えただけで私も最初はそう思っていましたが全然違いました。
両方とも同じ場所にあるということは、施設と河童の国が完全に分離していないということになります。この二つは全く対等な立場で論争を繰り返している。
外的に抑圧する存在としてあった施設から逃れるための河童の国であるとするよりもより第23号の辛さと孤独感が増しますね。
彼を普通の人間に矯正しようとしていたのも、自分らしく幸せになりたいと望んだのも彼自身であり、両者が全く交わることなく平行線のまま和解は最後までありません。
そしてその外側では普通の人間が普通の生活をしていたのでしょう。施設という、受け入れはしなくとも彼がどういう人間か把握だけはしていた存在すら、実在していなかったのです。
◇細かい違いについて
・5人の立ち位置
6/8時点では知っている顔のレパートリーがこれしかないから顔が同じなのだと語りましたが、こちらの設定だとそんなことはどうでもいいですね。5もいりません、顔が全部同じでもいいくらいです。全て自分なのですから。
河童に囲まれるシーンと白衣に囲まれるシーン、こちらに関しては6/7の観劇時にうっすら思いついたことが無理なく言えそうで嬉しいです。
もし施設が実在していたら時系列的に少々無理があったのですが、あの二つのシーンは同時に存在している可能性があります。裏表、同じ場所に同じタイミングで存在していて、互いを覗き込んでいる。
だから河童の国にいる彼も施設にいる彼も原地の言葉を喋ることができず、完全に観察の対象になっているのではないでしょうか。そして人間側は相手を冷たく切り捨てて、河童側は馬鹿だなあと笑います。
ただし、人間側は河童のことを知りませんが河童は人間のことを知っているのです。河童は人間を知った上で河童はいいぞと言います。理由をつけて、こっちの方がいいと。
対して人間は河童の存在を否定し、根本から切り捨ててしまいます。それは少しでも隙を見せたら全てそちら側に傾倒するのがわかっていたからではないでしょうか。
河童側に傾くことへの恐怖心。河童など知らない、我々は律して人間として生きなければならないという冷たい焦りを感じます。
・行きと帰り
第23号だったことを知らない、もしくは忘れているのではありませんでした。彼は本当に人間側の代表として河童の国に訪れたのです。フラットな状態で逆の世界を見たかったから。
彼はバッグの目を冷徹な目だと言いました。最初は完全に人間側の視点しか持っていません。それが河童の国で変わっていきだんだん馴染んできてしまう。そしてマッグという理性の死をもって帰ってきます。
このマッグの役割と立ち位置についてはそこまで差はありません。ただ河童の国だけが脳内だったというところから、その範囲が広がっただけなので。
基本的に河童の国の解釈の方は同じですね。
ニュートラルな存在であったはずのものが河童の言葉しか話せなくなった時点で人間側としては用済みです。そちら側は人間に順応したいので、また実験が失敗したというような、やっぱりなという諦めのような冷たさで対応します。
◇第23号について
・第23号の内面
脳内ではなく、無音で踊ったあの存在自身の話です。
あんなにも必死に人間に縋っている時点で「普通の」人間ではありません。この社会に疑問を持ち、生きづらく、ただそれでも普通が羨ましくて幸せを求め、世界を諦めて捨てることができない。
河童の国に行く際仮面を外すような仕草をします(毎回ではないですが)。そしてキツネのポーズ。これは変身ではないでしょうか。仮面なんてつけているから、本当の自分でないから息がしづらいのだと。
ただ人は誰しも仮面を被って生きています。まるっきり本当の自分とやらで社会に飛び出している人間など恐らくいません。それでも第23号は仮面を取ってしまった。その状態でも河童の国には完全に馴染むことはできませんでした。それはそうです、仮面をつけていない河童たちですら、それぞれ少しずつその社会からはみ出しながら生きていたのですから。
無音の空間で顔を覆った彼にはもう顔が残っていなかったのではないでしょうか。つけている仮面をむしり取ったところで本当の自分などおらず、全て取り払ったところには虚無しかありません。
自分の顔がわからない。自分が誰かわからない。自分自身ですら、他人に見えてきて気味が悪い。でも剥がす仮面はもうない。
暴れ回ったのが嘘のように立ち尽くす彼は、服の裾を握り肩が上がり、まるで怒られて震える子どものようです。冒頭「怒られるわよ」と言われたそれは社会にか神にか、それとも自分自身にだったのかそれはわかりません。
先にも述べましたが、彼の中にいかに人間と河童が混在していようと彼は本来河童側に傾きやすい人間です。それを必死に人間側に矯正している。
そして自らを失った彼の前にバッグが現れます。何もかもわからなくなってしまった彼にとっては大きな足掛かりでした。
河童語がわからないので、あそこで何が交わされたのかは我々にはわかりません。しかし彼にしてみれば大きな救いだったに違いありません。例え存在していなくても。
9日公演から、振りが変わりました。それまでは暴れ回るような、見えない何かと戦っているような振りだったのですが。折り返しで誰かを見つけて抱きしめて、でも幻だと気付いて絶望するようなものに変わっていました。
彼は会いたい存在に出逢ったら抱きしめる選択肢を持つ人間だということがわかります。でもバッグにはしなかった。触りもしなかったのです。それはなぜでしょう。
存在しないということを確認したくなかったからではないでしょうか。本当はバッグという河童など存在しないことに、気付いていたからではないでしょうか。
そこまでわかっていても、彼はバッグを消さないようにただ泣きじゃくるのです。
第23号自身は死んでしまったのか、廃人になったのか、河童の国に行った存在だけが消えてしまったのか。そこに答えを出す気はありません。わからんとしか言いようがないからです。
・名前について
第23号という名前について、原作を読んだときに思うところがあったので溢しておきます。芥川の専門家ではないので彼関連のことはよくわかりませんし、すでになぜ「23」でなければならなかったのかの論文などがありましたらごめんなさい。絶対にそっちを読んだ方がいいです。
Kappaはローマ字です。いやそれはそうなのですが、河童と書かれて「かっぱ」と読まない人は少ないですし、そう読ませたいだけなら「かっぱ」と書いても問題はないはずなのです。
ローマ字に何か意味があるのかなと思って23番目のアルファベットを数えたところ、Wでした。人間(Man)の逆なんですよね。偶然にしてはなるほどなと納得してしまったのと、23はアルファベットの中で一番大きい素数です。
逆さの人間でどうしようもなく割りきれない。第23号がああいう存在であったのは彼が第23号であったからではないでしょうか。
◯6/13版
◇芥川龍之介と『河童』の世界
さて、千穐楽1時間ほど前にとんでもないのが投下されました。
スズカツさんは事前に芥川の頭の中を描いたと仰ってはいましたが。主演本人から芥川を演じているつもりだと語られました。
これは大変なことですよ。6/9版でだいぶしっくりきていたものが根本からひっくりかえされました。拾い直しです。
つまりどういうことなのか。
もし織山尚大が演じたのが芥川本人であるならば。河童の世界にいた時間というのは『河童』の執筆期間だったのではないでしょうか。
河童の国を訪れた青年に白衣の記憶がないのも当たり前ですね。そもそも本の中の話なのですから。
施設は変わらず脳内の話か日常の圧縮で問題なさそうではあるのですが、そうなってくると別れとラストが大問題です。
バッグとの別れは執筆の終了を意味します。終わった話は続きを語れないのです。続編を書こうが似た物語を書こうが、同じ世界には二度と入れません。
『河童』を終わらせて本当にいいのか、でも彼は後悔しないと宣言しました。物書きとして話は終わらせないといけません。
芥川の人間性や生涯に関してはご存知の方も少なくないと思いますし、ググれば山ほど出てくるのですぐわかると思います。あんな感じです。
私もあまり詳しくはないので違うところがあったらごめんなさい。
「ぼんやりした不安」に追われ、日常が息苦しく、身体の不調に悩まされて。そんな中でも執筆という創作活動をやめなかった人間の精神状況など察するに余りあるというか、察したくないというか。
人間の皮膚の匂。
これは言葉通りの意味もあるとは思いますが、それぞれ不器用に、でも自分を隠さず伸び伸び生きていた河童と比べて何重にも皮を被って生きている人間が、ひどく気味が悪く見えたからではないでしょうか。
そして誰よりも色んな考え、登場人物を棲まわせた自分の"皮膚"に自家中毒を起こし逃げることもできない。
たとえどこに行ったって同じだとしても、己の皮一枚で生きていける世界に戻りたかったのではないでしょうか。
最後の第23号の慟哭は芥川そのものだったのでしょう。本の登場人物ではなく、芥川自身の苦しみが、いや苦しみなんてものではないでしょうか。
もう何も、天地もわからないほどの気持ちの悪さ、落ち着かず暴れ回る思考。『河童』を書いていた時だけは逃れられていたのかもしれません。それを自らの手で終わらせてしまった。
迎えにきたバッグが存在しないとわかっていたのも当然ですね。作中の登場人物(河童?)が現実に現れるわけないのですから。
でも彼はそれを追いかけました。河童の国に行った時のように。足を引きずって。
こちらでも彼がどうなったか断定はできません。解釈次第だと思います。
第23号が求めたものに関しては6/8版からそんなに変化はないと思います。
ただ、あの白い衣装を着たのが芥川であったとされただけですっきり片付く絡まりが多すぎます。
なぜ第23号はバッグとの別れであそこまで涙を流したのか。彼が第23号ではなかったからですよ。
書いている本人であれば物語が終わりに向かっていることくらいわかると思います。バッグの運命に心を打たれていたのではなく、その先の必ず訪れる別れに対して。
わかっていて、それでも終わらせるしかなかった。
◇色について
登場人物(河童)6人はそれぞれ特徴的な色を纏っています。
白、赤、黄、緑、青、そして黒。靴に注目してみると、その色のものではなく元々白だったものに着色しているのがわかるのですが、これは河童もまた第23号自身だったからではないでしょうか。
他の色はともかく、特に気になるのが白と黒です。
元々白衣の一部だった第23号が白なのは納得できますが、あのカラフルな世界でバッグの黒は浮いています。
黒は何色を混ぜても黒のままです。これ以上変えようのないどうしようもない、終点の色。芥川にとってあの老いた河童はそういう存在だったのかもしれません。
河童の世界を歩き切った第23号の前に現れた、究極の幸福。それでもその背景にあるのは生まれ持った"特異"と"不幸"でした。
幸せそうに見えて、河童の中では孤独であり。人間とは正反対の変わった河童たちの中でも公表できないほどの奇病。
ただひたすらに穏やかなだけの、静かに死んでいく運命は「幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴う」の象徴だったのかもしれません。
それを目の当たりにした第23号は帰る決意をより強固なものにします。
第23号の衣装は白で、これは本当にフラットな人間であることを表していたのではないでしょうか。からっぽで何もわからない、染まるしかない存在。
舞台上でペンキをかけるわけにはいかないのでずっと白のままではありますが、戻った後の彼は色んな色が混ざり合ってそれはもう散々な有り様だったのではないかと思います。
綺麗な色に、何者かになりたかったのになれなくて。もう何の色にもなれない。
白衣は汚い色になるくらいならと守っていた存在でもあったのかもしれません。
白衣を邪魔だとでもいうように脱ぎ捨てた第23号は戻ってきても白衣を着ることはありません。もう元には戻れないのです。
◇Smile
こちら、チャールズ・チャップリンの無声映画「モダン・タイムス」のBGMの一部で映画の公開から約20年後に歌詞付きでリリースされた楽曲となります。
映画の内容は機械化する社会への風刺がメインで、工場で歯車のように働く機械工から話は始まります。
毎日毎日ボルトを締め続けていた彼は次第に様子がおかしくなり、精神病院に放り込まれます。
そこから退院し、ひょんなことから刑務所に入るのですが出所までは省きます。
出所して職を探していた彼は万引きをした浮浪少女を助け、それをきっかけにニ人での生活が始まりました。
上手く軌道に乗り始める生活ですが、彼女の元に児童鑑別所からの追手が迫ります。
せっかく掴んだ職場からも逃走し、彼らは何もかも失ってしまいました。
泣き出す彼女を励まし、彼らは再び歩き出そうと何もない広大な道をニ人きりで歩いていきます。
そしてこのエンディングでSmileの原型の曲が流れるのですが、状況が『Kappa』のラストシーンと重ならないでしょうか。
歌詞には細かくは触れませんが、以下内の一節になります。
You'll find that life is still worthwhile
If you just smile
いやこれほんとに無理じゃんと思って私は頭を抱えたのですが、どうでしょうか。
芥川の辿った生涯と、舞台の終わり方と。もう皮肉でもなく一周回って美しいなとまで思いました。
いくらラストシーンが重なろうとそこにいるのは芥川一人きり。希望を持って笑って、生きるんだという歌が不思議と虚しさを含まずに流れていたのはやはりバッグ(天使)のおかげだったのでしょうか。
おわりに
もっと突っ込めるところも原作と比較できるところもいくらでもあるのですが、今回はちょっと余白を残しておきたいなという気分です。
何もまとまっていませんが、まとめる話ではない気もしているのでこれでよしとさせてください。
誰かに読んでもらいたいというよりは、頭の中で詰まったものを一つ一つ並べ立てただけという感じですね。
でも本当に楽しかったです。
2021.6.13