生命に打ちのめされた話〜ラストパイを観て〜

◆最初に
まず大前提として、私は感じることが大変苦手で基本的に考えることしかできません。
そしてソリストをやりきった織山さんにもほとんど触れていません。そちらへの気持ちや思いだったりは今後のコンサートや別の舞台で回収されるでしょう。

今回観ることができたのは東京の2公演。自分の中でぐるりと回ったものだけを文字にしております。


◆解釈

・全ての命

暗闇に響く振動はもう記憶にもない母親の胎内を思い出すようだった。
"何もない"から突如始まった宇宙は、誰の意思でもなく当たり前に今まで時間を重ねてまだ膨張し続けている。
そんなことを掠めながら明転した場所ではすでに命が踊り始めていた。
目を凝らさないといけないような薄暗さで、確かにはっきりと命がそこにいる。円や螺旋を描くようにずっと踊り続ける"そのもの"にどの命も触れることができない。
明らかに他に影響を与えつつ自身は何者の影響も受けずに、鼓動にだけ準じて踊り続ける。
周りの様相が変わっても、照らす光の色や強さが変わっても、誰が倒れても。
そんな中舞台上の全ての命が静止して、その間を駆け回る小さな生き物。自身が止まってしまうほどのエネルギーを送り出して"命"を甦らせる。
命が絶えない限り、生命もまた途切れないのだなんて意味のわからないことを思った。

心臓は檻だ。命がどれだけ増えようが活動が激しくなろうが、旋律が自由に走りだして加速しきることはない。
生物の心拍は加速しきったら、きっと身体を超えて命は自由に飛び出してしまう。そのぎりぎりまで、命の淵に立ちながら動きを止めないソリスト
踊りに呼応するように音量や音圧を上げながら、はみ出そうになりながら、それでも鼓動は飛び越さないミュージシャン。
対角で血液が巡る三角のリズムの中で、全ての命が生きていた。
ソリストから生まれる回転も螺旋も、分子構造やDNAから惑星の運動まであらゆるスケールを想起させるような途方もない舞台。広い世界で我々は生きている。


・「踊りそのもの」

雑誌で織山さんも言っていたけれど、コンテンポラリーと言っていいのかもわからないような踊り。
ダンスや舞踏の知識がない私には普段目にする踊りというより形式的、儀礼的な動作の連続に見えた。
「コンテンポラリーはどのダンスにも分類できない全ての踊り」「踊りそのものになりたい」は黒田さんの言葉だけど、ダンスとして一つの表現として磨き上げられたものでは踊りそのものを抽出するのは難しかったのじゃないかと思う。
根源的で原始的なエネルギーは芸術ではカバーしきれないのかもしれない。
美麗で格式立った、また大衆にわかりやすく加工された"娯楽"として愛でるための音楽や絵画は、あまりに雑音が多く核に触れることが難しい(個人の見解です)
踊りのジャンルに収まりきらない、はみ出て端切れになった全ての動作。身体の筋肉の関節の、生き物の動き。
人は、命は、なぜ踊らなくても生命活動が終わることがないのに"踊り"をするのか。そこに迫り切るためにあらゆる振り付けも装飾も人格も削ぎ落として、最後にラストパイの形になったのかと思った。


・人間と才能

ソリストに近付きすぎると動きを止めてしまう生き物たち。常人に収まらない突出したものに触れた時、確かに動きは止まってしまうかもしれない。
そして身の程も知らず才能に囚われる存在を「やっぱりな」と笑いながら群れに戻す群衆たち。その中にいてもたまに光が気になってまた動きを止める個がいたり。

それこそソリストをやりきった織山尚大を正面から見てしまった時、私も止まる。
自分も何かやりたい生み出したいと思ったところで、あまりにも"何もできなくて"ただ蹲ってしまう。
それでもあの輝きがまた見たいと、自分には眩しすぎるのがわかっていてもひたすらに向かい続けるのは抗い難い"興味"があるからだ。


・曲

先にも述べたけれど、シンプルに鼓動であろうと思う。一定のリズムを刻み続ける三拍子。観客の心臓に直接響く振動。

歌詞は少し聞き取るのが難しく、私もあまり掴めなかった。ただ食べ物の羅列だけは聞こえた人もかなりいると思う。最初はあまりよくわからなかったのだけど、繰り返しの中で「ラストパイは"死に損ない"」という話を思い出してゾッとするような感覚があった。
果物も肉も野菜も全て命であって、我々が普段食べるもの。同時にそれこそパイの具にもなりそうなもの。

それを認識した途端に目の前で踊るソリストが無慈悲なくらいに"ありふれた量産のパイ"に一瞬見えて背中が気持ち悪くなった。
何もかも超越した存在から見たらパイも人間も等しく"ただの何か"にしか見えないのだろう。それでも我々は他の命を食いながら生きている。自意識を持って何かを愛しながら、命を尊ぶことができる。


◆最後に

鼓動から始まって鼓動で、暗闇から始まって暗闇で終わる。全ての命の始まりからこの今までを圧縮したような舞台。
メビウスの輪のように終わることのない同じリズムを輪転機みたいに繰り返し、暗闇と暗闇は繋がってまた旅に出るのかもしれない。
ただ、終演の鼓動は客の一人一人の心臓に繋がって、今"ここ"にも帰っていくような。繰り返しの中でもあらゆるものを生み出すことはできるのだと思わされた。
あの舞台を続けるのは演者じゃなく、あのエネルギーを受けた私たちの"命"だ。ずっと巡り続ける生命の流れは舞台上だけにとどまらない。
死ぬまで生きようと改めて身が引き締まるようだった。




2023.3.28

2021年の今頃に -100%と1000‰の隙間で-

はじめに

 

2020年夏にとあるトンデモ虚妄かつ違法建築みたいなバカ長文を書いたことがあります。こちらです。

 

1オタクの織山さんソロ解釈

https://konbu-ha-kaisou.hatenablog.com/entry/2020/10/14/225157

 

根拠も何もかも本人の口からは語られておらず、散らばった要素を私の虚妄で無理やり繋ぎ合わせたものになっており

今回改めて読み返したのですが「それっぽいけど陰謀論とか都市伝説みてえだな」と思いました。

 

さて、何が言いたいかというと久しぶりに黒歴史を生成したい欲がものすごく出てきまして。

特に「%」周りを一度まとめたいなと思った次第です。

なんせ時間がかなり経っており細かい要素は忘れている上に拾い直す時間は流石にない始末で、そこはご了承ください。

あとめちゃくちゃ人を選びます。特にKappaに一切他の要素を混ぜたくない、という方はご注意ください。

 

また、この虚妄を読むにあたりブログなど今からはアクセスできない要素がありまして。

そのデータをくださいと言われても、大変申し訳ないですがそれはお断りいたします。すみません。

 

今回は以下の順番で追っていければと思います。

 

①発端のカウントダウン動画について

 

②「%」の話

冒頭22秒間

自撮りの動画について

黒の存在

赤について

青について

白について

白枠の写真

 

 Kappaとの"偶然"と当日のあれこれについて

▼7/21のブログ

▼Kappa"無音ダンス"

 

④サマステについて

ロダンスについて

青春アミーゴについて

 

⑤その他の小話

▼9/28のブログについて

のれんの話

まとめ

 

◯最後に

 

 

 

①発端のカウントダウン動画について

 

2021年の4/12に何の前触れもなく謎動画が投下されました。

 

「〇〇するまであと99日」【無音】

https://j-island.net/s/jitv/video/9320

 

これ、タイトル見た時にぞっとしたんですよ。どのタイミングで思い当たったかは忘れちゃったんですが、【無音】。

これ以降はわりと無音表記あるんですよね。

ただの"爆音煮卵でオタクの耳が破壊されてるのを憐れんでくれた菩薩ムーブ"の可能性もあります。

 

しかし2020年の9/5からこの動画まで、無音と表記された動画はありません。

その間に完全無音の動画もあったのに、久しぶりの"無音"が謎カウントダウンだったので心臓捩れたのを覚えています。

99日後にまた何か""絡みのパフォーマンス動画なんぞ投稿してくれた日にはどうしてくれようか、と。

ただ、そもそも""の話は自分の逞しい妄想力によって生成された虚言だと思っているところがあってですね。

その時点では、まさかそんなわけなかろうと思っていました。

 

さて動画視聴後、秒で日付を検索したら7/20でした。なるほどわからん

誰かの誕生日、記念日、命日、◯◯の日、ありとあらゆる思い当たるものを片っ端から見てみたのですが、いまいちピンとくるものがありませんでした。

そんな中で唯一"ありえなくない"と感じたものが以下になります。

 

4/12→99日後→7/20→99日後→10/27

 

なるほど?色々考えた中だと一番しっくり来るかなとは思いました。ただ、だから何だとも思いました。

一度全部を0に戻して再構築し、生まれ直す。そんな何かかなとだけ。

ぎりぎり1年ずれているとはいえ、織山さんの年代は18歳で成人ですから"大人"になる前の区切りのつもりなのかなとか諸々考えつつ。

当時は諸々考える、の域を出ませんでした。

 

そしてその日に上がった入所日動画のインパクトのせいでなんとなく放置、カウントダウンだけを何かもわからないまま始めたのです。

そう、当初は着地点の7/20ではなくて入所絡みの何かかなとも思ったんですよね。

本来4/13が入所日なのに何故か"5"という珍しい形で前日に上がり、その日と被っていたので不自然だなとも感じました。恐らく関係ないとは思いますが。

 

 

②「%」の話

 

7/20 22:20

 

%

https://j-island.net/s/jitv/video/10329

 

その日が終わる"100"分前。流石にこれはわざとじゃなかったら怒りますよ。

 

99日前からのカウントダウンをあえて付けたということは、やはり私は「0%」だと思っています。

減って削られて薄くなった底の底。根底の織山さん自身。

〇〇するまで、の〇〇の部分は一体何だったのか。

最初からこういう動画にする予定だったのか。

そもそも4/12時点で〇〇の内容は決まっていたのか。

何もわかりませんが、わからないから良い、みたいなこともありますよね。

〇〇が「100」に見えたって「%」に見えたっていいわけですよ。

 

この少し前に何かの媒体、ラジオだったでしょうか。

落ち込んでる時に自撮りをする、みたいな話をしていました。

その時は特に引っ掛かりませんでしたが、今思うと少し納得というか。100で生きている中で時々0の方に振れるその瞬間があれなのかなと思いました。

 

詳しく内容を見ていきましょうか。

 

 

冒頭22秒間

 

赤の照明の中、飛び起きる人。

直後に"右手で"スマホをチェックするような動作をします。

そして脱力したようにスマホを置く。

 

照明はこのタイミングで赤から青へ紫を経由して切り替わり、今度は"左手"が徐に動き出します。

左手は何かを掴もうとして、でも照明が赤に戻るタイミングで宙を切って落ちる。

 

これでサマパラ関連じゃなかったら逆に何だよとキレかけましたよね。いやいやスマホ右手で取ったから何、偶然でしょwみたいな話もあると思います。

私も脳死でサマパラだね!って言ってるんじゃないんですよ。まあ半分脳死なんですけど。

これは後にわかることですが、織山さんの部屋って寝てたらスマホは左にあるはずなんですよね。

動画的に右の方が見やすかっただけでしょって?わかる、でもじゃあ上にあげるのも右手でよかったんじゃないですか?

このくらい詰めていきますよ、何より自分自身でも納得したいので。

 

さて、ここで一つ気付いたことがあります。

%」の動画内では何回かレッスン室が映りますが、物が置かれていたのは冒頭の部分だけです。

そして"椅子が3"置かれています。

9/5の無音の時も思いましたが、いらないものをわざわざ置かないと思うんですよ。ましてやこんな意味深な、ミスリード誘いそうなものを織山さんは多分置かない。

ただし、そうなるとじゃあ机はなんなんという話になって。机、ちょっと難しいんですよね。

 

一旦机は置いておいて、仮に意図があったとしたら何の意味があったんでしょうか。

他の青と黒の動画には椅子も机もありません。

 

これは本当にただの妄言(ずっと)なんですが、元々は一つ目の自撮りから始まる動画だったんじゃないかなとなんとなく思っています。

冒頭は仕上げというか、別撮りの後付けだったんじゃないかと。動画をトータルで見た時、少しだけ感触が違うというか。情報の出し方が丁寧で説明っぽいんですよね。悪い意味ではなくて。

では、なんでそんなことをしたのか。

前書き的なことだった可能性ってないですかね。

赤で右手、青で左手の時点でサマパラとの関係を疑い、紫が挟み込まれて混乱し、3つの椅子でまたなんとなくサマパラ関連な気がすると思わされる。

冒頭がなかったらまずここまで""について疑いなく突撃してないわけですよ。しようと思わないというか、あまりにも根拠と材料がなさすぎるというか。

 

状況説明、前置き、登場人物()紹介もろもろを兼ねたものだったんじゃないかと思うわけです。

最悪この冒頭部分はなくても内容は成立してるっちゃしてる感じがするので。

今からこの中身を見せますという説明付きのドア、目次みたいなものですよね。

 

ちなみにこの冒頭の""なんですが、私は織山さん自身なんじゃないかと思っています。

赤や青を象徴しているわけでも白でもなく、それらを使う側の、全部中身に持っている人間としての存在。

そして、後に説明する""とほぼ同じだと考えます。

 

なぜ本人かというと、それは起きた原因にあります。

自然に起きたわけではなくて"起こされた"。初見では日頃の言動的に夢見が悪かったのかな、と思っていたんですが。

だとしたらスマホを見る必然性がわからないんですよね。じゃあスマホに起こされたのかなと。

何か操作っぽいこともしてますし、それがアラーム切ってる感じに見えるんですよね。

正確に言えばアラームではなくて、カウントダウン。0になったタイミングで鳴ったものに起こされたから、あんなにぐったりしていたんじゃないかと。

削られっぱなしだったなら悪夢を見ていたというのも、それはそれで同時に成立するかもしれません。

 

カウントダウンを宣言したのが織山さん自身だったのと、0を告げられる存在が色であることは流石にちょっとしっくりこないんですよね。

あと、色として"いる"時はもう少しわかりやすい服着てる気がします。服なんてたまたまでしょって?サマパラ見てきてって言いたいんですがサマパラ見れないんよな事務所よ、悪いこと言わないし画質も贅沢なこと言わないからパフォーマンスの記録は何かしら残しといてほしい

いや、でも9/5の無音でも全然わかりますよ。全部踏まえて"それ"系の時に適当な服は着ないと思います。

 

 

自撮りの動画について

 

素材としては、このためにわざわざ撮ったものはほぼないと思います。恐らく前述のマイナスな感情の時に撮る、正門おじに送る用のやつです()

これが色としてどこに割り振れるかみたいなことはそこまで考えていません。基本的には織山さんそのものだと思っています。

 

よく見ると目線がカメラのものがないんですよね。

我々と目を合わせることを目的にしていない、他人との繋がりではなくずっと画面に映る自分を見てるってことです。

つまり自撮りの織山さんというのは、他人から見えているというより織山さんから見える織山さんなんですよ。

そこに色の概念が乗るかっていうと、わざわざ作らない限りは微妙なところだと思います。

 

これの具体的なチョイスに関しては、もう流石にわからんとしか言いようがないです。

仮に時系列で何か意味があったり髪型や服装にこだわりがあっても、こればっかりは本人にしかわかりません。

 

 

黒の存在

 

最初に見た時、黒どこから湧いて出た?と思いました。

思いましたが、唯一いるんですよね。"ぽい"のが。6/5のブログの写真です。

黒パーカー、黒パンツで真っ暗な部屋で踊る人間。

この期間中の練習着のデフォがたまたまこれだっただけ、と言われればそれはそうかもしれないですが。

黒の存在っぽいものが初めて出たのって多分、ここだったんじゃないでしょうか。

 

本文の内容的にもこれは織山さん自身、というか"織山尚大"そのものでないとおかしいと思います。

色の概念ではなくて。

 

%」の黒は、よく見ると何か被っています。被るというか長めの何か、ロングコート的なものを着ているというか。

纏うものの下で形成され、一つの形になる。

そして最後にそれを払って、ずっと静止していたものが"動いた"

タイトルは「%」、恐らく動画が始まった時は0%でした。

 

0になった人間が飛び起きて、徐々に要素が足されていく。色んな日の自分が、感情が、色が、踊りがリズムが、そして張り切ったロープが切れるように決壊して動き出した""

全部自分の中に戻ってきて100%になった織山さん自身なのでは、と思っています。

 

 

赤について

 

さて、黒については何となく落とせたところで、次に気になるのは個人的には赤なんですよね。

 

見てるだけ。踊らずにずっと、こっちを見てるだけ。

9/5の無音ってどんな動画だったでしょうか。あの時着ていたのは青の方でしたよね。

当時の自分は踊っていたのを白と結論づけました。それ自体は未だにそうじゃないかと思っています。

青を纏った白だけがただ残って、では赤はどこに行ってしまったのでしょうか。

 

それからこの動画まで何をしていたかというと、ずっと見ていたんです。眠ることも死ぬこともなくじっと待っていた。

ただし、織山さんの100に赤は必要だったから%には"いる"んですよ。白に封じ込められ権利を奪われて、それでも消えなかったんです。

ではなぜそう思うのか。

 

%」の赤の部分は、他と同じような自撮りにエフェクト被せてるだけだと最初は思いました。

でもよーーーく見るとこの2箇所は同じ日同じ場所な気がします。

じゃあどこかって、点滅の感じとかで雑に推測すると。

踏切?

待てば開きますね。おめでとう。

 

自撮りのくだりで、色の概念と目線云々の話をしました。

それを踏まえた上で「%」全編の中で色そのものとして存在しているのは、この2箇所の赤だけだと思います。

照明がかなりわかりづらいので断言はできないんですが、この赤だけこっち見てないですか。

そして、色に関わる箇所の中で赤だけが"無音"なんです。なぜそれが大事なのか?

色から直でアクセスしてくる時、音は乗ったことがないからです。

この動画内に紛れ込んだイレギュラーですよ。明らかに"素材"が違う。

 

見る人がいなくても織山さん自身は存在できます。

でもそれぞれの色に関しては、それを知覚できる者、つまり我々がいなければ存在し得ないわけですよ。

アイドルだろうと表現者だろうと、自分しかいない世界でそれを拾ってくれる人はいません。

だからこそ赤はこっちを見てるんです。表現としての要素だから。目を合わせないと存在できないから、です。

 

 

青について

 

サマパラでは頑なに白を挟み込んでいたのに、なぜ今回冒頭では紫、つまり赤と青が混ざれるようになっているのかなんですが。

これは青が存在ごともう戻って来られないということかな、と考えています。

赤は織山さんが表現をやめない限りは消えませんが、青はジャニーさんがいなくなった時点で生死関係なくいずれ"消える"しかありません。

 

今使える青は本来のものではないと思います。

コピーしてなぞった、そのものではなく"思い出"としてのもの。9/5に白が使っていた青です。

だからこそ赤と地続きになれるわけですね。白を介さなくても、それはもう触れなかった青ではないからです。

 

この床の傘は一体なんでしょうか。落ちたまま触ることのできない傘は、もしかしたらそっちが青の象徴なのかもしれませんね。

自撮りで本人が雨に濡れるしかなかったのも、青がもういなかったからなのかもしれません。

 

 

白について

 

どこにいってしまったんでしょうね。「%」の中には一見いないような気がします。一見は。

 

ただの反射対策なのかもしれないし、何かしらが映ってしまって普通に消すという本来の目的なのかもしれないんですが。

レッスン室の動画って全部変なとこにぼかし入ってるんですよ。これ、なんですかね。

白い光みたいなもの。

 

冒頭、青が手を伸ばした真上。

傘の真上。

黒が足を踏み込んだまさに真上。

 

もちろん偶然かもしれないけど、にしてはちょっと気持ち悪いよねって話です。

ちなみに同時期同じ場所で撮られた島動画に、同じような加工が入れられたものは恐らくありませんでした。

 

白についての解釈はたしかアイドルとしての規律とか枠組みみたいなもの、としていた気がするんですけど。

黒が踏み込んで終わったのは単純に100%になったのもありますが、最後に白の下に入ることでアイドルになれるからじゃないかと思ったり思わなかったりしてます。

織山さんが織山さんたり得る、最後の要素が"アイドル"だと言うとわかりやすいと思います。

 

冒頭、つまり起きた時に一番遠くにあるのは、織山さんがよく言う「織山尚大にまだなっていないから」じゃないでしょうか。

 

 

白枠の写真

 

一番意味わからん。そしてこの写真、何がどうとか説明できないんですが私はすごく怖いと感じました。

 

めちゃくちゃ失礼な話なんですが、そもそもこの人が織山さんに見えない。いや当然本人なんだけど別人に見える。

動画の構成的にも"あるもの"に見えるんですが、流石に怒られると思うので言いません。

 

まあ個人的な恐怖心はさておいても、ちょっと突っ込みどころがありすぎるんですよね。

 

他撮りにしろ鏡越しの自撮りにしろ、スマホの画面つけたままカバー側を見てるところを偶然写真撮ることある?自撮りだったら余計意味わかんない撮り方になります。

そもそもどういう状況??が強すぎて全体的に"よくわからない"んですよね。

 

黒ゴムだけ思うところがあったので覚えといてください。

あと、サマステで関連深いのはどちらかと言うとソロより「君が思い出す〜」の方かなと思います。

この写真長時間見てられないので一旦パスで。

 

 

Kappaとの"偶然"と当日のあれこれについて

 

ここで微妙に話変わってしまうんですが、進行上避けて通れないので一瞬立ち寄りますね。

一連の備忘録も兼ねているので思い出話感が強くなってしまって、興味ない方は④まで飛ばすことをおすすめします。

 

4/12の次にカウントダウン絡みで鳥肌が立ったのはKappaが終わる頃のことでした。

期間中はカウントダウンどころでは、なんなら色もサマパラも吹っ飛ぶくらい"それどころではない"状態だったので、存在すらほとんど意識していませんでした。でも。

千穐楽が終わり第23号とも今日でお別れだと。

大変な激重感情のまま、まとめイラストをぶん投げた時に飛び込んできたのは自分の名前の後の「_23」。

 

千穐楽の日は23日前だったんです。これに気付いた時、なんだか腑に落ちてしまいました。

この時点では7/20に何が起こるかも当然知らなかったので、"偶然"カウントダウンと重なって、0になるまで第23号にゆっくりお別れができるんだなと呑気なことを思っていました。

7/20には何かしら起こるだろうから、きっとそこで新しい何かが始まる。Kappaへの未練を断ち切ってくれるだろうと。今思えば甘すぎましたね。

 

7/20はあまり日常に集中できませんでした。

島動画レベル(といっては失礼ですが)の媒体で新規の仕事の告知はないだろうと思いつつ、万が一に備えて早朝まで解禁を待ち。

どのタイミングで投下されるのか。島なのかブログなのか。そもそも何かあるのかないのか。

 

たしかこの前日、つまり第23号に関係があるならぎりぎり彼が"1"残っている日にKappaの会報も出て。

20日の日中には第23号の欠片も感じられないアイドル極振りのオフショも発表され、ああKappaは本当に終わるんだなとかそんなことも思いました。

 

島ラッシュの夕方は特に舐め回すようにチェックしましたが特に更新はなく、じゃあブログかと。

そういったことで悶々とした中迎えた20時、その日の更新は小田将聖くんでした。

「ないかな」と思いました。何もないのもまた答えかと。もしKappaに、23に照準を合わせたカウントダウンであるならば、0になるその日に"ない"ことは普通にありえるなと思っていたのです。

 

そして22:20

何してたかってしごおわ、もうないやろと思ってのんびりコンビニ前歩いてた頃ですよ。鮮明に覚えてる。

帰宅して一応確認して、奇声を発し、一旦置き、味もわからないまま秒でご飯を流し込み

更にちょっと置いて第一声。以下コピペします。

 

23:32

この動画が上がった時外歩いてて気付かなくて、その時に頭を駆け巡っていたことが次のツイです。吐きそうだ。なんの0%だこれ。何。気持ち悪い。

 

23:33

うわきっっっっっしょ

ちょっと待っていやほんと待って偶然に呪われてるのか君は

18921292021なんですよ

Kappa情報解禁されてから今日129日目なんですよ

1892年って芥川の生誕年なんですよ

きっっっしょ

 

23:33

いや違う、絶対わざとじゃない(多分)

わざとじゃないのに大千穐楽23日前で会報が1日前できょう何もなかったってじゃあそうじゃん。お別れじゃん。

没後じゃなくて生誕年だよ、もうこの130日間絶対忘れられないわ。

出会って追いついて明日からはもう一緒にいられないじゃん、は???

 

23:33

仮にだよ、仮にどっちかが意図的だったとしても12923両方一致するのは流石に気持ちが悪すぎる吐きそう。

織山って何?????

 

23:37

色の話いい加減にしたいとは思ったけど紫が見えた瞬間に怖気が走った。白いらないじゃんもう。第23号と、Kappa織山尚大の境界線ってどこなんだ。赤と青はもう混ざれてしまってる。

何のカウントダウンをしてた?何のカウントダウンをさせられてた?この0が本当に不気味に見えてしょうがない。

 

23:52

補足

この赤青白はサマパラの概念の話。でもKappaの織山さんはずっと白を着ていて、曰く無音のところは自身だった。

今日、第23号と芥川が消えたかもしれなかった。白が。何がどう繋がっているか全くわからない。白が消えた。それはKappaって舞台の上の話だ。でも紫、もうわからない何も

 

7/21 0:24

さっき電車の中で129に気付いた時、あまりの偶然で血の気が引いて

明日起きたら第23号が記憶からいなくなってるかもしれないと怖くなった。

ある意味そうなった。どういうことだよ。

 

 

▼7/21のブログ

 

21日、20時。たしかちょうど休憩中で、まさかなと思ってブログ確認して、とにかく人がいないところに逃げました。

かなり息を整えて、読んで。最後の1フレーズに息を止められてぐちゃぐちゃになりました。どう仕事を終えたのか覚えていませんが、事故りはしなかったと記憶しているので自分を褒めたいです。

 

しつこいくらいの「一」と、最後の100。日付と通し番号以外の数字は一と100だけ。

そして、Kappaの話は何もありませんでした。ありえるとは思っていました。

もしブログが今日なら舞台の話はないかもって。前日にあれだけ消えてしまったことを実感させられて、それで出てくるなんてことがあるかって。

 

根拠がもう一つ。

20日のしょせのブログ、Kappaの話はたしかしていたのに織山のおの字も出さなかったんです。

わざとなのか本当に"偶然"なのかはわかりません。

でも先輩の主演舞台を見に行って、その感想で名前を出さないなんてことが果たしてあるでしょうか?

たまたま、なんでしょうか。

それも含めて消えたと思ったんです。23日前の島動画を最後に、織山さんの存在そのものがカウントダウン上にしかいなかったからです。

 

そして先日のブログで、直前に終わった舞台に触れないのが決してデフォではないのがわかってしまいました。

織山尚大の頭に戻りたい」で私が思い出したのは、第23号と一緒に1日ずつ消えていった彼自身の記憶です。

Kappaとの関連というのは、本当に偶然に次ぐ偶然"のみ"と言えばのみなのですが。

切り分けて考え得るというだけで、全てをたまたまと思う方が厳しいような気がしてくるのが不思議ですよね。

 

 

▼Kappa"無音ダンス"

 

どのタイミングで言ってたか覚えてないんですが、ある日クリエでやる予定だったソロダンスをKappaにも盛りました的なことで殴られました。

 

そういうことするんだって最初思ったんですよね。いくら演出にOK出されたって作品は作品ごと、そもそも別のものに要素をぶち込むこと自体が難易度高いと思います。

それなのに観ていても違和感はまるでなくて、でも多少変えているにしろベースは本人なわけで。

 

本来虚妄するにしても、本人ただ一人の作品と全く別の舞台をここまで繋げることはしません。

別件をなすりつけて考えることがまず双方に失礼ですし、そういうこじつけ方があまり好きではないのもあります。

ただし、今回だけは繋げないと逆に見えないものがあるんじゃないかと思いました。

 

4/12時点でクリエの中身はだいぶ詰まっていたはずです、そして当然中止のことなんてまだ誰も知らなかった。

何も問題なくそのまま行っていたら、一体どんなパフォーマンスになっていたんでしょうか。

結果的に、恐らくセトリ的には被る内容も多かったサマステは「%」の後にせざるを得ませんでした。

本来「%」が一番後ろだった。それだけでも怖いんですけど。

 

つまり、予定通りなら以下。

 

カウントダウン開始

クリエ

%

 

これだけで終わってた話かもしれないんですよ。この場合にKappaの無音ダンスがどういう形になってたかまでは分かりませんが、流石にクリエのテーマがベースにはならなかったと思いますし、そういうことはしないと思います。

過去人に見せたもの、過ぎたもの、そういうものをあえて引っ張り出さないような気がするので。

 

そして結局次の流れになりました。

 

カウントダウン開始

クリエ中止

Kappa

%

サマステ

 

23号であると同時に芥川でもあったあの時の織山さんが、舞台の上の一番大事なところでベースに敷いたのは自分だったわけです。

分けて考えられますか?これ。Kappaと一連の織山さん個人の中身の話。私は無理かもしれないです。

だからこそあんなに関係性をこね回すことになりました。

 

ではあの無音ダンスで表現されたものとはなんだったのでしょうか。

実際に客が目にしたものというのは、土台は織山さんだろうと上にいた芥川ですよ。それしか見えなかったし、観ていた時は"それ"が織山さん本人かどうかなんて考えもしませんでした。

ただ、じゃあ元は?クリエで披露されるはずだったベースの方。

見えない何かと戦いながら、ひたすら自分の中身を探して拾って吐いて、大事な何かに会えなくてどこにも見つからなくて泣いて祈るような""ってなんだったんでしょうか。

 

正直クリエとこの無音、そしてサマステがどのくらい被った内容だったのかは我々には知りようがありません。

ただ、この3つはいわば兄弟のようなものですよね。根っこは同じですから。誰一人見ることができなかったクリエのソロパート。

もしそこでも色要素を盛っていたんだとしたら、それは白なんじゃないかとなんとなく思っています。

これは第23号が白を着ていたから、ではありません。

 

根拠がなさすぎて申し訳ないんですが、もし全部一続きの話なんだとしたらですよ。

9/5の無音から%までの間に白に何があったのか、まるでわからないんです。少なくとも動画内から一見"消えた"ように見えるほど存在が薄くなってしまった原因がわかりません。

本来クリエはカウントダウンの途中に挟み込まれるはずだったので、もしかしたら何かその要素があったのかもななんて思っています。

今となっては何もわからないですけどね。

 

Kappaで見たものは、あそこにいたのは第23号でしかなく。感情も行動原理も彼自身のものなので細かい内容や振りには触れません。

クリエ、見たかったですね。

 

一応ですが、Kappaに色の話を絡めるのは本意ではありません。

ただあまりにタイミングも日数も重なってしまった。

舞台は舞台で全くの別物で、そのものを未だに渇望するほど愛しています。

でも気付くと背後に立たれているような不気味さがあるんです。"なぜか"噛み合う、"偶然"一致する。そんなことが無視できないほどありすぎました。

 

 

④サマステについて

 

あの、いやいいんですよ。見られただけでも前転して土下座するレベルで感謝はしてますよ。この上なく感謝してる。それはもう。

ただ「そこをカットせんでくれ」の一言でしかない。いや!わかるんですよ!織山の出番多いしな、全部入れんでもええわ削ったろってね。気持ちはわかる。バランス大事。

なんならダイジェストにした上でも織山さんアホみたいに出てたしね。ソロ入れてくれただけでも本当に五体投地レベルのお歳暮案件なので別にいいんですけど。

セトリ摘んだ方は何も悪くないんですよ、ただの私のわがままなんですけど

 

君が思い出す僕は 君を愛しているだろうか

 

見たかったんすわ…(絞り出すように)

%」もソロも、一つの形ではあるんですがまだ揃ってないんですよ。

永久に追い求めるんだろうな。ラスト一つ、青いピース。

人伝に聞けるのももちろんありがたいんですが、口伝は口伝でしかなくて私は原文を読みたいんじゃ

というか普通にサマステ忍者全編観たい。

 

 

ロダンスについて

 

泣いて観れるもんでもないので気を取り直していきましょう。

青春アミーゴの前のソロダンスです。

音がいくつか入っていますね。風の音と何か生き物が息づくような音。それと目立つのは咳払いと靴底の摩擦音。

 

やっとりますやん?めちゃくちゃ聞いたことありますけどって。

あの夏に頭バグるほど聞いた風の音ですよ。そして、生き物とは言ったけど息遣いは人間か肉食獣っぽいですよね。じゃあ具体的に何のって話、なんですけど。

 

正直私は円盤化されたバージョンのものしか見ることができていません。

つまりもし毎日何かしら違う箇所、アレンジがあったとしてもその内容は知りようがありません。矛盾するところも出る可能性があります。

そして万一違った場合は、それは知らせないでくれると助かります。泣きますそれは。

 

ただしこれだけは確かだと思う。この使った音と大きめの要素だけは多分毎日一緒だったんじゃないでしょうか。

後半は変わってても不思議じゃないと思うんですが、特に前半ですね。全体の流れは恐らくほぼ変えてないんじゃないかと思ってます。

がっつり変わってたらすみません。

 

話戻りますね。

あの、まずですね。「%」の終わりって黒が足を踏み込んで音鳴らして終わるじゃないですか。

サマステのソロの始まりって何でした?これだけでニヤニヤしちゃいますよね。

そして動画は暗転、ソロは明転。間には数瞬の暗闇。

いや、繋がっとるやんけ。

 

サマステってずっとステージ上に披露曲とメンバーの名前が映ってるじゃないですか。

ソロに関しては、当たり前なんですけど「織山尚大」しか表示されないんですよね。ただ織山さん越しのそれを見た時に、タイトルだって思っちゃったんですよ。

いや、もちろんこの踊ってるメンバーはこういう名前ですっていう説明以上の意味はないですよ。構成上はね。

でも本人がその表示をどう思ったのかは置いといて、あのソロは。あのソロ自体が織山さんそのものじゃないですか。

 

一周回ってやってらんねえわと。Kappaは偶然で片付けられるかもしれないけど、このソロは何をどう足掻いてもサマパラ、%と結びつけない方が個人的には無理なわけで。

たった1ステージの1ロダンスでは到底届かないレベルの"個人"の圧縮。ただのスキルやダンスの実力の話じゃないんですよ。

コンテンツとして要素と物語が盛りすぎなくらい盛られていて、その上であの無駄を削り落としたクオリティ。

 

中身行けよとね。すみません。

 

まず衣装についてなんですが、黒パンツに白シャツです。

つまり白を纏った黒です。「%」からの流れをなんとなく感じますよね。それこそこのソロを踊るのは織山さん自身です。

そしてここで黒ゴムなんですよ。

いや、言いたいことはわかります。これに関しては流石に半々だと思ってます。

そもそもサマステ中ずっと手首についてたし、毎日してたかもわからんし、使いやすさで考えたら左にするだろうし。

 

それでも、それでももし"あえて"だとしたら?

%」ラストの1枚、服の色はもちろんなんですが""に見えるんですよね。それも元の方の。

え、色なのにこっち見てねえじゃん。元の青はもう織山さんにしか見れないからです。

じゃあ踊ってるのも青なんじゃねえの、も早計かもしれません。あの写真を囲っていたのは白だからです。

 

黒ゴムは青を表す記号ではありません。白を通じて青を舞台まで連れていくための装置です。

サマステ中ずっとしていたなら、もちろん「君が思い出す〜」でもしていたんですよね。このソロよりも、そっちに青のわずかに残ったものがいた方が"やばい"です。

でも観てないのでそれは語れないというか、何とも言えないんですよねンンンンンン(残念)

 

はい、中身について。

白照明ですね。白照明です。まあそうでしょうね。この流れでサマステの舞台、客前で織山さんとして立つなら白しかないでしょう。

 

まず上手の方向いてますね。そして靴の擦れる音。これ最初に聞いた時に「ドアが開く音みたいだな〜」と思ったんですが、あながち、かもしれません。

ずっと開いてなかったから軋むような音がしたんでしょうか。赤くん久しぶりだね。

 

右足で音を出しながら開ききって、そのまま右足から踊りが始まります。そして同時に息遣いの音。これがどの色の、かはわからないですが。まあ赤かなって。

そしてまた上手の方を向いて"閉じ"ます。手も。

照明の白から見えない位置で、右手と左手が出会いました。

いやここで名前映すの天才がすぎる、金を払わせろ。払ってるけど。

 

で、ですよ。ここで風の音なんですよ。

サマパラソロ冒頭を彷彿とさせますね。でも行き着く先は違います。左右の手を組めてるんです。あの頃とは状況が違うぞと。

風の音が不自然に途切れて、そして咳払い。流れが切れます。

これに関してはまた根拠ゼロのただの感想なんですが「集中して」って言われてるような感じがしました。今はサマパラの話してないって。もうあの時の空気は存在しない。

""に流れかけたものを"織山尚大"に引き戻されるような。

 

リズムを作り出すのはずっと右足です。最初からずっと右側が動いていたのが、だんだん左右均等な振りになっていって最後は両手を掲げてソロは終わりです。

パワーバランスが左右同じになりました。

 

話全然違うんですがこのソロ、""がまじで好きなんすよ。織山さんの中にある音楽を何も噛まさずに直で聴けてる感じがして頭パーンなりますよね。

というかそんな動き回ってなんで音ハマるん??意味がわからん。

ずっとねちねち細かいとこ突き回してますが、ほんと好きすぎて全然冷静に見られないんですよ。

おっ今のところ気になる、があっても停止押せないんだよ困ったな。

 

この日のこれを何度も擦るとバランスがイカれそうなのでこの辺にしておきますね。

円盤と違うバージョン見れた方は各自噛み噛みしてください。是非。

あと多分黒ゴムはあんまり気にしなくていいと思います。

 

 

青春アミーゴについて

 

見始めでは、いや関係あるかね?と思ったんですよ。

あとジャニーズにわかすぎてどこまでストーリーが絡んでるのかわからんという情弱、たった今Wikiであらすじ調べたレベルです。

思うところはめちゃくちゃあるんですが、いやストーリーの解釈でしょと言われたらそれはそれで落とせちゃう内容なんですよね

 

ここの解釈は私は手付けないでおこうと思います。

それこそ気軽に足突っ込んだらいけない範囲だとなんとなく感じるので。

 

散々%関連だなんだ言いましたが、ソロは青春アミーゴの前置きとしても全然成立すると思うのでそれはそれで楽しんでください。

いや、まじで成立しますよ。というか普通そうだと思います。

ただドラマも原作も履修してない人間が言及するのちょっとあれなので、その辺はお任せします。

 

強いて言うなら、ソロが「%1ミリも関係なくて、かつ青春アミーゴの左右の色と対応してたら?って話ですね。

 

 

⑤その他の小話

▼9/28のブログについて

 

サマステ後最初のブログです。

まあずっと通常運転だなーと思って最後、二度見どころではない動揺の仕方したのは私だけではないと思います。

 

」。いややってんなと思いましたよね。

Kappaのくだりで、本来はカウントダウン・クリエ・%で完結する物だったんじゃないかと言いましたが、本人はそんなつもり最初からなかったのかもしれません。

ただ、今後""絡みの続きが語られるかどうかは微妙だなと思っています。

 

ずっと連綿と続いていくもの、100で上限だったものが質量はそのまま1000まで数えられるようになりました。

これ、1000日後になにかあるみたいな話ではないんじゃないかなと思います。根拠はありません。別にあったらあったで嬉しいですけど。

 

ずっと続いていくんです。今まで100は要素として見え得るもので構成されていたけれど、もっと細かい出来事や出会い、感情、作品、記憶。

それは明確に拾えるかどうかではなく、一つの作品として、より解像度の高い織山さんになってまた我々の前に現れるんじゃないかって。

 

というかそういう大事なことを記号一つで投げて寄越すなって話なんですけど、ほんとめんどくさい。

でも好きです(そうですか)

 

 

のれんの話

 

これはただの"たまたま"って怖いね、の話なんですけど。

松岡さんが織山さんに贈ったのれんの話です。

 

曰く"都会の街並み"などのイメージは織山さん発注で、特に色は松岡さんにお任せしたと。

それであれ出来上がるのやばくないですか?

白と紫と赤だけで、っていうか白い月もなかなかのトラウマ物件なんですよ。

紫の空と街並みに赤だけが浮かび上がって、白い月が照らしている。青はいない。

「俺紫好きだから」と仰っておりましたがいや偶然ってほんとすごいですよね。怖いわ。

 

 

まとめ

 

全体的に「%」メインになってしまったのと、サマステ周りもスッカスカでまとまらず申し訳ないですが。

7/21のブログを読んだ後に零したもので内容は締めたいと思います。

 

7/22 1:06

 

おりやま担じゃなくてよかったってコメントに「な、うらやましいだろ」って思うのは噛み合ってないようだけど唯一の答えなんだよな

 

7/23 14:23 ※添付より

 

・リアルタイム連動で、解釈は個人の勝手で、こんな楽しいことあるかと。

無償でここまで見ることができていいのかと。

しかも本人は何も言っていない。島動画2本をただ上げただけでここまで。

受け手だけが勝手に考えて勝手にのたうち回っていて、数十回目のとんでもねえなが頭を掠めた

 

・今、織山さんが本当に楽しいなと思っている。

震えるような喜びだ。最高に楽しい。

 

 

◯最後に

 

先に前置きますが思想強めオタク出てますので、各自ご用心ください。

 

 

何度も言ってはいるのですが、本人が口にしない限り"正解"はありません。本人が口にしたとしても、それが正解とも限りません。

私のは「そうあるべきだ」ではなくて、「違うと思うけどそうだったらおもろいね」というだけです。

 

楽しみ方は人それぞれ、それはそう。どこでマックスの脳汁出るかは人によりますし。

それでもこういう噛み砕き方をして自分なりに全部飲み込めた時、誰よりも楽しんでいる自信があります。

 

まあその、一銭にもならないですよ。僻地ブログで虚妄を垂れ流そうと、本人の知るところではないし"アイドル"としての推しの稼ぎにはもちろんならない。

恐らく布教にもならない。

ならないけど、"作者"としての推しには100以上返せてると思う。そこは疑ってないです。

もちろんこの色周りの解釈を具体的に推しに伝えたことは一度もないですよ。

万一影響したら嫌だし、本人にとっての縛りみたいになったらそれは本末転倒なので。

 

オタク、どうしても金額とか再生数を指標にしてしまいがちで、それはもちろん推しが生きていく上では最重要だと思います。

先立つものがなければ歩きさえできない。そこに異論は全くないです。否定をしようとも思いません。

むしろ私はその方面に給料全振りしてでも尽くそうと思うタイプではないので、すげえ人もいるもんだと思ってます。

 

でも、それだけを重要視してればいいかって言ったらそれはそれで違くない?なんですよね。

グッズを積むオタクが偉いかっていったらそれは「あなたの楽しみ方がそうなだけ」なので。もちろん逆もまた然りですが。

金突っ込んでなんぼ、楽しんでなんぼ、病んでなんぼ。

一線越えない限りは、全オタクがあらゆる方向に"必要"であることに間違いはないのでね。

 

何をどう言っても角が立ちそうで文章力のなさを恨むんですが、例えば自分が本を書いたとして。

何冊買いました!何人に勧めました!何回読みました!ももちろん嬉しいとは思います。

でも、私だったら。何回も読んだなら気持ち悪いくらい読み込んだ感想を聞かせてほしいと思う。

自分の意図と違ったっていいから、話の構造とか流れ、細かい因果関係とか擦り切れるまで楽しんでほしいって。

その本は"売り物"だし、頑張って書いたものがたくさん売れたらそれは嬉しいに決まってる。でも中身だってがっつり読んでほしい。

自分の名前だけに価値があって、中身は流し読みだけして埃被ってるみたいなのが一番悲しい。と思う。

 

推しがそうかなんてわかりませんけどね。結局バランスなんですけど。どっちの方が正しいとか偉いとかじゃないです。

でもその読んだ人の、その人だけの思考回路で考えて思ったこと、ひらめきはどれだけ金積んだって買えないんですよ。

作り手のわがままなのかもしれないですけど、それはたとえ大金じゃなくても受け手になってくれた方の"時間"を奪う願いでしかないから。

単純に望んでいいものではないことは重々承知してます。私も積ん読してる本がないとは言えませんし。

 

いや今更ですが、どうしても説教くさくなるのはよくないですね。

ただ織山さんに関しては特に、中身素通りするのは心の底からもったいないと思いますという感想です。

考察ありきのホラゲをホラー部分でしか楽しまない、ストーリーありきの推理ドラマを主演の顔面でしか楽しまないくらいのもったいなさですよ。

どうせ楽しむなら骨までしゃぶりたいっていう、それが私なりのリスペクトです。

 

まあ結局"人それぞれ"なんですけどね。そんな時間ない時だってありますし。お布施で万札突っ込みたくなる気持ちは私にもありますし。

細けえことはいいんだよ、いいから全部見せろって思う時もあります。

 

それでも何かパフォーマンスを見た時に、ちまちま欠片拾って毎回馬鹿みたいに考えて頭抱えてひらめいて解釈落としてきた人間にしかわからない要素を、織山さんは入れてくることがあります。

今回で言えば特に「%」ですね。

 

それがアイドルというよりは"作者"からのご褒美っていう感じがして、そういうとこがたまらなく好きなんですよね。

作者は答えを渡さない、こちらからも解答は伝えない。それでも何かは共通で持っておける(気がするだけ)。思い込んだもん勝ちです。

もちろんこれからもそうとは限りません。だんだん要素を入れ込んだり練ったりする時間的な余裕は少なくなってくると思うので。

でもパフォーマンスそのものにどっぷり浸かって、100%純粋な"楽しい"を提供してもらった記憶だけはずっと残りますよ。

 

毎度ですがまとめが長いですね、申し訳ないです。

 

どこからどこまでが何かわからない。わからないけどわからないくらいがいい。

掴んだものが全く違ってもいい。わからないくらいが一番楽しい。

 

ずっと言ってる気がしますけど、結局ここに辿り着きますね。

これにて"昨年"にようやく卒論出せます。

対戦ありがとうございました!!

 

2022.5.21

「犬との約束」感想をぶちまけていく


◯このブログについて

いつもの拗らせた構造こねくり回し虚妄万歳みたいな話はそんなにしてないです。

好き、可愛い、曲がいい、悲しい、切ないくらいしか語彙がないんかみたいな感想がメインになってます。


頭から必死に捻り出してはいるんですが万が一順番とか内容違くない?があったらそっと教えてください!


最後の方ちょっと思想強めオタク出てるので苦手な方は読み飛ばしてね。自己判断と自己責任で!


◯第一幕

◯第二幕

◯ラム目線で観劇して

◯トータルの感想とか

◯織山さんのオタク目線では




◯第一幕

オーバーチュア


曲と照明の連動がすごく好きなんですよね。

トランペットでの開幕が朝っぽくて、昼間、夕方、夜、そして夜明け。我々の日常から夜を跨いで、日が昇るのと一緒に別世界に入れてもらってるような感じがする。


曲的には多分この順番だったかな、M10の後って何かありましたっけ…?


ジョージのスピーチ

M4 報われる世界

M15 愛犬ラム「僕の親友〜」

M10 いつも一緒に



ダニエルとラム


アコギのイントロがまさに物語の始まりって感じがしてわくわくするのよ。

トランペットとアコギは朝って遺伝子に刻まれてんのかな。音で季節とか時間帯表現できるのすごいよね。

あとちょっと牧歌的な感じがしていい。広くて澄んだ自然を感じるというか、安心する音。

オーバーチュアのトランペットに関しては厳正かつ公正ってイメージもあって、再審のバックがこれでしたね。よよよのよ。


語り部のコーラスがめちゃくちゃ綺麗で数回目からはもうここで泣きそう。曲がいい。

生まれた時からずっと一緒ってさすがに同時に生まれたなんてことないと思うし、ラム目線なのと犬の時代的な寿命考えると「"ラムが"生まれた時から」かな?

ダニエルが生まれた日にお父さんが拾ってきたとかだったらしんどいどころじゃないけど。

語り部おじさん(園岡さんと言え)の声が優しくてさあ…


ダニエル登場からめちゃくちゃ踊る。織山さん独特のバキバキ感はそこまでない振りだけど所作がいちいち美しいな。

バレエっぽい動きとかわりとあったイメージだけど知識なくてわからん。

うつ伏せになるとこ前列は間違いなく記憶飛ぶ。私の中のオタクが喜んでる。歩き方ァ…(かわいい)

空指差してラムに教えるのも可愛い全部可愛い、可愛いのもいい加減にしろ。

暖かい歌詞と音楽にダニエルが囲まれてるだけでどっかの神経に触れて泣きそうになる。


この時点ですでに犬の寿命に触れてるの、ダニエルってほんとにずっと頭の片隅にそれがあるんだなって思うよね…



人として


マクレガーさん取り立てシーン。不穏。いや岡さんばりかっこいいな、何頭身なん?頭ちっっさ。

ほーん、地主さんなのかな?(実業家でした)

まあよくある話よないや仕事と家提供してくれるの手厚くない?頑固も強情もそれはそう。

え理由「思い出を大事にしたいから」だけなん?お母さん???いやわかるよ、わかるけどそれとお金払えてないの別の話じゃない?

マクレガーさんまじ寛大すぎ


アー!ダニエル!かわいいね!

「あっマクレガーさん」の「あっ」が毎回かわいいね、ない時もある。息が詰まる感じ好きだわ、織山さんの空気使い(?)のオタク多分全員ここ好き。

嫌いなわけでも懐いてるわけでもなくただただ気まずそうなのリアルでいいよね。ダニエル的には単に悪い人ってわけでもないんだろうなあ。

っていうかマクレガーさんダニエルにめちゃくちゃ甘くない?気持ちはわかる。そら可愛いよ、可愛いもん。

可愛いけどちゃんとダニエルって認識してて、かつお前とかそいつじゃなくて「その子」とかって呼んでるんだよね。

自分の土地に居座り続ける強情な女と薄汚くて口数の少ない息子、の扱いではないんよ。


メアリーが「必ずお支払いします」の時ダニエルに寄り添うのが、息子を外に出したくないとか外の世界を知って離れていってしまうのが怖いみたいなニュアンスを感じてちょっと寂しいね。


メアリー言ってることわりとぶっ飛んでるけど歌が良すぎんか。あとすーごい声綺麗。

これで子ども蔑ろにしてたらアレだけど愛情深いのは間違いないのよね。ただダニエルを夫との思い出の一部にしてはいませんか、というのはちょっとねあれだよねお金では動かないって、いや払えてないんよ気高く生きとる場合じゃない。

ダニエルが純粋に母親を思っているのが若干不憫に見えるまである。

ただ曲と歌が良すぎて普通に胸を打たれるのずるい。



報われる世界


マクレガーさんと労働者の裁判。

これもよくある話よね。どっちの言い分もわかるよ。「だらだら働いた時間の分まで金出してられるか、成果対報酬だよ」っていうマクレガーサイドと「全員が最短で終わらせられるわけじゃないし悪用されるかも」っていう労働者サイド。これは制度もデータもなければ一生平行線。

ここの歌もすごく好きなんだけど、高圧的でも卑屈な感じでもなくて暗くないのがいいよね。双方不満や言い分はあるけどそれなりに活気を持って街の日常が回っていってる感じ。

バキバキにメンチ切るボブを何回かトーマスが止めてるのが可愛い。

スーザン終始ハラハラ。



仕事の流儀


負けちゃったので報酬を受け取らないジョージ。いやいや仕事にオンリー善意はNGでしょ。スーザンとトーマスがすれ違えないくだり毎回笑う。トーマスいいやつ。

スーザンのド正論パンチに結局「ごめん」で済むのは人間性なのか悪意がないからなのか。「謝って家賃が払えりゃ苦労しない」それはそう。


青木さんの声好きなんよね。あんまりツヤツヤしてないのが逆に温かみがあると言うか。

どんな結果でも仕事に誇りを持て、は個人的にまあまあ刺さりましたね。

この曲中のジョージの表情すごい好きなんだけど「それが、僕さ〜」のあたり特にスーザンにビビり散らかしてて不覚にも可愛いんだわ。愛嬌があるよね。

まあ仕事への報酬が形見売っぱらった代金っていうのはそれは違うよ。気まずいし。



それがあなた


ケイトさん美しい〜〜〜ダメ男製造機かな???

パパのおかげでお金に困らないならそれは誰も文句ないですけども

でも「パパのような人にはなってほしくない」のよね。難しい話だよなあ。若い。綺麗な理想だけで食べていける人間はほぼいないんよ。

スタイルの良さとか等身の感じめちゃくちゃ遺伝子感じる。

今回ダニエルとメアリーも雰囲気似ててそれぞれ親子感出てるのすごくいい。


ジョージ、仕事に誇りを持てって言われた直後に「ちょっと頼ろうとした」ってぽろっちゃうの迂闊で可愛いよね。いや結局可愛いんだよな。ほっとけない感というか。スーザンがいてくれる理由ってそれが8割なんじゃないかね。

この歌、劇中でトップレベルに音がむずいと思うんだけどどうじゃろか。ケイトさん難しそうな曲多いよね。



我々の気持ち次第


悪徳裁判長。裏で社会回してる人はこうなりがちなイメージはある。

私利私欲を置いとけば言ってることはわかるよ。今の時代でだってこの構造はそこら中で見る。

生活が苦しいなら自分で打破しろよ、それができないなら文句言うなって論調は今もあるよね。

低所得者は日銭稼ぐのに精一杯で勉強してる時間もないから、上にいる人間がなんとかしてくれよっていうのはわかる。でも酒飲んだりだべったりしてる時間があるならちょっとは自分で勉強したり動いてみろやっていう、ア゜(爆裂ブーメラン)

実際マクレガーさんもアレックスも叩き上げみたいなところあるだろうし、"やればできる"の体現者だから余計そうなっちゃうんだろうなあ


ただ、嘆く労働者個人に対しては「努力が足りない」でいいのかもしれないけど、低賃金で働く人たちが軒並み職投げて高待遇のとこ行っちゃったらそれはそれで破綻するのでね。

ある程度街が大きくなったら多少のベースアップは必要だし、還元してかないと将来的に色々滞りますよと…聞いてますか裁判長。


ところでマクレガーさんの歌う部分ちょっと一曲前のケイトの歌に似てるところあった気がするんだけど、やっぱり親子なんだなっていうのと対比が良かったですね。気のせいかもしれないけど。



娘のお願い事


イケおじのベスト(大好物)

いやすみませんマクレガーさん本当にビジュアルが好きすぎるんです

またお一人で行かれたんですか?は意味深すぎるなあ。

ここでマクレガーさんがアレックスにイライラするの大好きなんよね。「冗談じゃないよ」あたりの語感とリズム感良すぎてそこだけ録音ほしい。いや嘘全編ほしい。


ケイトさん目も合わさずに部屋直行はお父さん泣いちゃうよ?娘にでろでろなマクレガーさんきゃわだね。

「大抵のことはなんでも聞いてしまいたくなる」の後に口パクでほんと?って聞き返してるケイトが可愛い。

玉置さんの貫禄で大人びて見えるだけで、実際20代前半くらいのイメージなのかなあ。反抗期がまだ可愛い感じよね。理由はちょっとしょうがなくもあるけど。

それでも頼めばパパはなんとかしてくれるって、甘さと強かさが混在する感じがお嬢様っぽくていいよね。

あとちょっと家賃とか人件費の援助して、くらいかと思ってたらスケールでかすぎて笑っちゃった。金持ちの考えることは違うわ…

ジョージからそういうのはいいからって言われたのに「彼のため」ならまるっと無視するのも愛がちょっとズレてる気がする。

けどジョージにはそのくらいごりごりに道を拓いて突き進んでく彼女の方が絶対いいよね。


最初お願いベースだったのに結局親子喧嘩になっちゃうの可愛い。

「ケイトさん、さあ謝ってーー!!!」と「図星だからそんなに怒るのよ、フン!」が好き。

図星だったんだろうなあマクレガーさんからしたら綺麗なものだけ追えるジョージがちょっと羨ましいのかもしれない。

でも自分はそういうものを切り捨ててまで稼いで家族を支えてきたプライドもあって、その辺のイライラが全部アレックスにいってるのも不器用で可愛い。

アレックスも終始不憫で可愛い。可愛いしか言ってない(いつも)



人生なんて


働いても働いても一向に楽になんかなりゃしないってな。ほんとそれ。

従業員雇えないのは土地代の問題なんだろうか、農場として経営がすでに破綻しかけとらん??

ここの酔っ払いの歌好きがすぎるな。無条件で酒飲みたくなる。

はいはいまたかみたいな反応で限りなく存在感消すダニエル愛おしいね?(ちなみにメアリーはアル中の設定らしいです)

愉快に人生を嘆く歌って歌詞だけ見たらほんと悲しいんだけど、惨めには聴こえなくてなんかいいよね。女性組がスカート振って踊ってるのめちゃくちゃ好きだわ。歌い方も好き。経済や社会が加速する時、必ず振り落とされる層がいて格差も開いていってしまうのはいつの時代も一緒よね。

「正直者が馬鹿を見る、誠実さなんて1セントにもなりゃしない」知ってる〜〜オタクにもありますそれ〜〜(白目)


最初と終わりでみんな陣形()組むところすごいくだらなくてすごいかっこいい。

私がめちゃくちゃルーシー推しなのもあるんだけど、この曲のルーシー本当に酒癖が悪いただの酔っ払いなのにすげえ可愛いの。


酔っ払いに囲まれながら、ラムと抜け出す時だけ楽しそうなダニエル可愛すぎるのと目線の先のオタクが毎回悶絶してる。強く生きて。



いつも一緒に


酔っ払いに絡まれるダニエル、たまに「さいあく

って言ってる?どこの癖に触れたのかわからないけどどっかしらの情緒が爆散しました。

絡みたくなる気持ち大変よく分かります(やめろ)

「大人はどうしてお酒を飲むんだろうね?」で「アッッスミマセッッッッ」になった社会人オタク多分わりとおる。しゃーない。こっち見んな。ごめんて。


この後の曲中にルーシーとボブがひたすらいちゃついてるんだけどほんと可愛いから全人類見て。

バーバラとメアリーがしっぽり飲んでるのもちょっと泣きそうになる。

そしてダニエルの声がずっといいんだわこれが。「大好きだよラム」の柔らかさが脆すぎて怖いくらい。

メアリーが変わってほしくないって思うのもわかるよね。

ただ綺麗で純粋なまま、それだけのまま成長させるのが果たして優しさなのかっていうのは別問題。



不幸もいろいろ


キャシーの話って普通に笑えないんだけど、話のネタにできるくらいのレベルに落とし込めてるあたり劇中の"普通"のやばさがやばい(語彙)

個人的にこの曲のアコーディオンアレンジとか聴いてみたいんですよね。女性組男性組に分かれて歌うところすごい綺麗で好き(語彙)


正直キャシーがメインヒロインだと思ってるとこあるんよね。他の女性陣に比べて強すぎないというか。いやセクハラになるんかなこれ。

みんなが弱いところがないっていう意味じゃなくて、いい塩梅で弱みを見せるのが上手いというかですね。モテそうですよね。一番シンプルに可愛いと思う。何言ってもセクハラになっちゃうなこれ。


バーバラさんはまじで何があったん。魔女みたいでかっこいいんだよなあ。後ろでビビる皆さんも可愛い。

「あんた私に何か不満でもあんのかい!」でいちゃつく(広義)カップル推しです。

はけるときのバーバラさんガチ酔っ払いで好きなんですよね。


みんなの不幸自慢聞いてるとこまではまだ普通にしてられたんだろうけど、農場の暮らしを幸せじゃないって断言されたのはメアリーきつかっただろうな。

自分は幸せだからそんなこと言わないで、じゃない気がする。夫を置いて忘れて新しい生活を始める気にはなれないけど、それでもどこかでこのままではだめだってわかってる。ダニエルもいつまでもこの場所に居させてはだめだと。

メアリーもダニエルも、頭の片隅には楽になりたいがうっすらあるんだろうなっていうのが見え隠れするのが辛いね。でも夫との思い出から離れられなかったり母親の助けになりたかったり、一歩も動けないけど毎日は消化していくしかない。

それを繋ぎ止めてたのがラムだったんだろうなあ。


ダニエルに関してはメアリーにこの生活を続けてほしくないっていうのもありそうよね。

農場を離れてほしいわけではないけど、夜な夜な酒を煽って辛そうにしているところは見たくない。でも日々できることは手伝いとかご飯を作ることだけで、そんな自分にも無力感を隠せてない感じ。


メアリー元お嬢様説をわりと推してるんですよね。仕事を与えるって言われてるのに「そんな簡単に仕事なんて見つからない」って言ってるから農場を離れてもマクレガーさんの手は借りたくないのかな?と思う。

他の労働者とくらべてガツガツしてないというかプライドが高いというか。

もしそうじゃなくて対仲間たちへの言い訳だとしても、なんだかな。もしかしたら農場経営以外の仕事を一からやる方法がわからないのかもしれない。とか。

メアリーへの当たりきつめな記録になっちゃうけど。

ちなみにメアリーのカテコめちゃくちゃ麗しいので全人類見てほしい。すごい好き。


みんなラムみたいだったらいいのに、は個人的にはあんまりわからないかな。

犬が優しいのは主人側にも誠意があるときだけだよ。

極論飼い主が犯罪者だろうと犬に対して真摯であれば犬が裏切ることはあんまりないんじゃないかな。

逆に外向きどんなに優しい人でも裏でペットに虐待していたりする。

ダニエルが言いたいのはそんなことじゃないのはわかってるけど「みんなそうだったら」に共感はできなかったかな。信じ抜くことは危険な時もあるので。

全人類裏表なく善人であることを前提にしないと成立しないのよ。そしてダニエルもそれはわかってる。実現なんかしない夢物語だってわかりながら願わずにはいられない。エェン幸せになってくれ。



誰のシンデレラ


スーザン好きだわ「ろくに事務作業もできないわね」が呆れ気味だったりちょっと笑ってたり優しさが滲んでたり、毎回ちょっとずつ違うんだけど全部ママみがある。

日替わりパンと「20ドルになりまぁす()」毎回楽しみだった。

この歌もかなり好き。納得できること言ってるようで嫉妬丸出しなアレックスね。というかケイトさんあそこまで感情向けられておいて気付いてないのすごいな。

好意を向けられ慣れてるのかジョージしか見えてないのか。

そしてアレックスを吹っ飛ばすスーザンがたまらなく好き。アレックスって見た目お堅い感じに見えるんだけどわりと人間面白いのでは?スーザンと何回か「ん?」ってなるのも凸凹コンビ感あって可愛い。



私だけわかっているわ


ケイトが箱に乗る時、登りはジョージとアレックスの手を借りるんだけど降りる時はアレックスが手を差し伸べてもスルーなの切なすぎてな

人々のため、を物理的にできる余裕があるのはお金がある人だけだよ。共倒れになる。でもその辺はちゃんとわかってそうなケイトさんえらい。

っていうかこの歌シンプルむずない?特に最後の方。



犬にまつわることわざ


このことわざ、少年期と青年になった時でだいぶ違うからやっぱりダニエルの少年か青年か問題かなり重要じゃない??歌詞ではどっちも出てきてますよね。

寿命的にはまだ死期じゃなかったって言いたいんかな。

そしてこの歌の()吉田さんが好きですうたのおねえさん



愛犬ラム


いやめちゃくちゃ跳ぶじゃん。重力どうなってる???1ミリも伝わらないんだけど下手で両手パッてやる振りが好きです。

膝叩いてラム呼ぶのめちゃくちゃ好き。可愛すぎる。


僕の親友〜を歌う時ただの愛情だけじゃなくて、いつかいなくなってしまうのはわかってるけどまだ側にいてほしいっていうのが滲み出てる感じがする。それまではしゃいでただけにそのノリとの対比が苦しい。

すごく愛に溢れた歌なのに既に寂しさとか覚悟があるんだってわかる気がするのに次のシーンお前ほんとにお前。いい味を出している

最後にラム受け止められずにすり抜けていっちゃうのアアアアアア



永遠の別れ


しかし別にマクレガーさん悪くないんだよな。

元の事件って"悪意をもって殺された"のが胸糞案件なんだけど今回別に悪くなくない?

飼い犬か野犬かわかりませんでしたっていう状況で、よしよし落ち着けってできないよね。野犬は処分すべきという前提まであって、それなりに当然といえば当然の反応だと思ってる。

アレックスを守ろうとしたのかなとも思ったり。


というのを差し引いてもダニエルの受けたショックがダイレクトにこっちに伝わってきて厳しいのよね。

助けないと、が途中から治さないと、になってたの個人的には後者の方が苦しい。

これもし死に目に会えなかったとしても病死や寿命だったらあの反応じゃないと思う。血って強いんだよね。本能的に視覚から受ける情報がかなりきつい。

実際どうかはわからないんだけど、立ち上がる時に本当に力入ってなくてメアリーが必死に支えてるの辛いね。


ここのジョージ事務所ほんと救い。

形見売る前にやることあるんちゃうかと思うけどほんと救い。

「うるさいなーもーー!」もちょっとイラつくけどほんとにもう救い。

スーザンマッマの正論ストレートは私にもめちゃくちゃ効くんじゃ



ラムのいない世界


喪失感えぐいんだけどこの曲まじでいいよね。どっかでソレ↑って上がるとこめちゃくちゃ好きポイント。歌詞うろ覚えすぎる、「消えゆく↑」とかかな。たしか吉田さん。吉田さんのオタクなんか??


箱に座るまでの間にめちゃくちゃ目でラム探すのやめれとなる。

ダニエルの苛立ち強めの日とか寂しさ強めの日、心がただただ弱ってる日、まだ信じられない日、いろんな日がありましたが。

個人的には自分を抱きしめてもうラムがいないことを確認してるみたいな日がゴリゴリにメンタル削られましたね。

「色が消えた」で目に光入ってないのほんとやばい。



受け入れられない


メアリーのあなたまで失う、はラムよりも旦那さんの話だろうな。メアリーはダニエルほどラムの存在を大きく思ってなかったかもしれないけど、いざ二人きりになったら不安だと思う。

そしてラムとダニエルが一緒に遊んでるところは旦那さんが亡くなる前から日常だったわけで、メアリーの中でも決定的に何か変わってしまったんじゃないかな。


頭でいないのがわかってても身体に馴染みすぎて物音に反応しちゃうの辛すぎるよ。それにもう反応しなくていいっていう状況と、頭での理解が一致した瞬間だけは普通に堪えられないと思う。

「あなたは強く生きるのよ」がもーーー辛くてしゃーない。そう言うしかないよね。母親としてはそう言うしかない。わかるけど、でも生きてって。

「ラムがいない、ずっとずっと」でメアリーの手を滑り落ちてくの切ないね。

場面転換のイントロ()好きです。



僕に話して


お墓を掘り返してるところ全編通して一番好きかもしれない。癖がばれる。

織山さんの喉鳴らして泣くのすごい好きなんですよ。癖がばれる。もうちょい長く見たかっ(

いや冗談はさておき本当にすごいんだよね。

細かい感情はそこまで一致しないんだけど第23号が帰りたいって泣いてたあの時と少しだけ重なった。

会えないのはわかってるけど動いてないと潰れてしまうから、何か動き続けなきゃいけない。

顔が見たいなんて理性的なものではなくて精神的な防衛本能だけで掘り返してるみたいな。


このミュージカルって時間帯で言うと私は夕方が一番印象的なんですけど、劇中はたしかラムとの別れとこのシーンだけだった気がするんですよ。

オーバーチュアで夕方って「僕の親友〜」のメロディだったんですよね(無理)


手話は本当に謎。爆裂に空気読めてないけどケイトさんわりと天然だよね??「祈ってあげなさい」みたいな歌詞も今じゃない感がすごいのよ…

保安官に言っても無駄っていうのがわりと引っかかっていて、お父さんが亡くなった時に何かあったのかなってちょっと思った。

それか農場の小僧が言っても動いてくれないと思ったのか、そもそも犬のためになんか動いてくれないってそこは冷静に思ったのか。


ジョージの「君にとっての家族はそんなものなのか」って言葉は正直全編通して一番カチンとくるよね。そんなわけねえだろっていう。まだそこまで整理できてないわ。

あの瞬間、ダニエルのことを思っているようで自分の正義に反したものを正したいだけっていう方にずれてるように感じたのよ。

結果的にダニエルが進む道を整備してくれてるし、本人もそれに乗ってるから悪くはないんだけど。


正直犬目線で見ててもマクレガーをやっつけて罰してくれとはそこまで思わなかったし、「ラムのために」っていうのはかなり無理があるなって。

あのタイミングで、というかほぼ全編通してかな。ラムって自分が死んだことに気付いてないのよ。私だけかもしれんけど。

見えてるのになぜか会えなくて、ダニエルはずっと苛ついたり泣いたりしてて自分も悲しい。側に行って寄り添いたいけど行けない、だけなんだよね。

だから「ラムのために」って言われてもちょっとよくわかんないなって。いやいや君のためになんかさせてくれやって思う。今苦しんでるのはこっちじゃなくて君だよねって。


話の流れとか作品的におかしいというわけじゃなくて、ダニエルの心情って本当にそうだったのかな。いや台詞がそうなんだからそうだろって言われればぐうの音も出ないけども。

内心がどうであれ、たしかに一言で言えばラムのためなのかもしれない。でもなんか、なんだろう私だけかなこの違和感は。まあ当事者じゃないのでなんとも言えない。


「この街の〜できること」の音がめちゃくちゃ好きです。一幕ラスト、全員の主張が理解できるし誰も悪者じゃなくてこれが"社会"だなあと。

いや裁判長はギリアウトかな。



◯第二幕

目撃


ワンちゃんには首輪つけましょう(そこ)

このシーンで一般的な労働者から見たマクレガーさんのイメージとか格差がかなりわかると思うんだけど、やっぱりメアリーの態度って他とちょっと違うんだよね。

他の誰かだったら仕事と家くれるんだったら別にええわ、マクレガー怖いしって農場を離れてしまいそう。

いやそんなことはよくて。

メアリーの反応、マクレガーまじか許せねえじゃなくて「あの人がそんなことをするなんて信じられない」って感じなのよね。君たちの過去とは??


親子で弁護士に対するファーストタッチの警戒心すごいな。何かあった?お父さん絡みかな。

農場が貧しくなってしまったのは悪徳弁護士のせいだったりする?わからん。


以下マクレガーさんについての虚妄をしたためた過去ツイをコピペしておきます。(内容少し被ってるかも)


◇ダニエル父との関係

若い頃はマクレガーさんの方が地位や影響力が下だったんじゃないかと。

恐らく彼らが若い時って劇中より工業化が進む前で、その頃に後々美術館だ鉄道だってくらい大きい農場を経営してた人(ダニエル父)が一農民とは思えない。

飢えや貧乏を知らない、という発言から若い頃はかなり苦労したんじゃないかと推測できるし、もしかしたらダニエル父にかなりお世話になってたのかもしれない。

どういう経緯で土地の所有権がああいう形になったかはわからんけど何にせよでかい関わりあったのでは?


◇メアリーとの関係

上記なぜ思い当たったかというと、他の労働者の訴えや証言は鼻で笑ったり全否定なのにメアリーには敬語。強情な"お人"とまで言ってるし、農場を守れないなら〜みたいな言い回しも気になる。守るって何か特別なニュアンスがあるよね。

そしてジョージや労働者と比べるとダニエル親子にかなり当たりが弱い。特にダニエルに一対一で怒鳴ったりきつく当たったりしてないんじゃないかな。

あとアレックスを連れずに何回も会いに行ってるのも気になる。何?好きなん?ふられたん?

仮に農園を離れたとして家用意するよ!仕事用意するよ!ダニエルも学校行きなよ!(意訳)は高待遇過ぎない?夫の死から解放されて欲しいんですか?

何??好きなん???

メアリーも不幸自慢と"心の貧しさ"の歌に参加してないあたり、他の労働者とちょっと育ちが違う感じがするんだよね。性格の問題かもしれないけど。


◇ジョージとケイトへの当たり

昔はいい暮らしをしていたメアリーがどんどん貧しくなっていくのを見ていたから、ケイトと重ねてしまってジョージにあんな当たりきつかったのかなとか。

労働者の味方をするからじゃなくて、本当に単純に昔の自分とか今のメアリーみたいな環境にいてほしくなかったから結婚反対だったのかなって。

奥さんを恋愛感情で好きだったかは不明だけど豊かならきっと幸せにできるとは思ってたんじゃないかな。


◇事件について

実際の事件の年代とアメリカ大陸に狂犬病が波及したタイミングがわりとジャストなので、マクレガーさんに知識があったかはわからないけど野犬か飼い犬か判断つかない状態で「やられる前にやる」理論は対処としては間違ってないのよね。

何回か農場に出入りしてるのに犬を飼ってるのを知らなそうだったし、ラムも誰かわからないから吠えたっぽくて相互に認知してないのが不可解なんだけどこればっかりはわからん。

→何回か取り立てに来てたのをラムは見てて"悪いやつ認識"はしてたんじゃないか?ってボリオさんが仰っててなるほどでした。



利害関係


裁判長ほんと私利私欲おじさんに見えるんだけど、こういう人めちゃくちゃいるしこれを許さない社会は少しだけ発展が遅れそう。私見

ここのマクレガーさんしっかり裁判長のこと嫌いそうですごくいいよね。普通にいい人やん。若干性格悪いけど。


っていうかさあ、話逸れるけどこういうことなんだよね。普通に生活しててこいつすげえ嫌いみたいな人いるじゃんたまに。マクレガーさんって自分の人生の中で会ったらあんまり好きじゃないと思うのよ。

でも劇中では家族との関係とか内心何思ってるかとか過去がうっすら見えたりするからキャラクターとしては好きになってしまうわけじゃん。

別に現実世界も一緒なんよ。会う人全員に感情移入してたらもたないし、そこまで中身開けっ広げにしてる人もいないから理解するのは難しい。無理な人はどう頑張っても無理だしね。

でもみんなプログラムされたNPCではなくてそういう個々の細かい人生で世界が成り立っているよなと思うなどする。まあ譲歩とか思いやりにも限度はあるんですけど。



人の本質


利害関係でいいと思いますけどね。善い行い一つするのにも「しなかったら自分が嫌だから」って理由がある。

利害を考えるのって要は理由付けじゃん。それが利益か損なのかまで考えてなくても、全くの理由なしに動く人っていないよ。極端な話愛だって"理由""利害"じゃんね。

そういうこと考えてるから捻くれるんやろな。


いやここのマクレガーさんまじでフェリペパッパ。カルロスくん見てない方はごめん。権力者あるあるよね。我々が生きてる次元よりももっと利害が濃くてやらしくなってく。上に立つ人間は孤独だよね。

アレックスも切ないよなあマクレガーさん曰くの「利害関係」抜きに接してくれるいい部下だと思うんだけどな。



偏見


ジョージがショック受けるのしょうがなくない?とは思わなくもないんだけど。

殺人だと思い込んでたら犬でしたって聞いて「関係ねえよ殺人と一緒だよ」って本気で言える人現在でも少なくない?

例えば子どもと飼い犬を本気で同列で扱える?亡くした時に同じ重さで感情を動かせる?

私無理かもしれないんよね。決して比べることではないんだけども。失った年数が違いすぎて、少なくとも精神の回復までの時間差はかなり出てくるんじゃないかなって。

いや子どももペットもいないのであの、ほんとすみません。燃やさないでください。人によります。

ダニエルにとってのラムが下手したらメアリー以上に大切な存在だったかもしれないのはそれはそうよ。

でも他人にいきなりそれをわかれっていうのはハードル高ない?っていう話。

私も自分の楽器に置き換えて考えたら本気で気狂いそうになったんですけど、それをいきなり聞いた人が同意してくれるとは思えないんですよね。


だからといって散々話聞いた後に「たかが犬」はだめでしょ、なんだけど。ダニエルがはっきり怒ったのってそれ言われた後なんよね。

個人的にはラムが犬って知ったらジョージがどう反応するかが怖くてあえて言ってなかったんじゃないかなって思う。その上でこの人ならわかってくれるかもってうっすら期待してたのかな。

ジョージが勘違いして怒ってることにはあんまり驚いてないように見えたしね。ただ勢いがすごすぎて言い出すタイミングなかっただけかもしれん。


ジョージくん無知だなんだってめちゃくちゃ言うけど、いやダニエルもそれはわかってたんじゃないの?っていう。保安官には言っても無駄、がここに繋がるかもしれないよね。

その上で、あなたならもしかしてって信じてくれてたんよ。

「マクレガーを打ち負かしたかっただけ」ほんとそれな。言い方悪いけど、人のため正義のためって思ってて蓋開けたら"良いネタ"に興奮してただけ感はある。

それをちゃんと自覚できたジョージは偉いよ。

「なんのために弁護士に」のあと後退りながら走ってくダニエルがめちゃくちゃツボです。


途中でジョージの歌のメロディが変わるのすごく好きなんだけど、心情の変化としてはわりと唐突な気がしないでもない。

いやハッと気付いた感じだから別にいいのか。だから急にメロディがぱっきり切り替わるん…おけ、解散。



街中話題の裁判


まあ無理でしょうね

普通にマクレガーさんなんも悪くないしね。茶番を見届けに、とか腹立つこと言ってるんだけど事件に関してはほんと悪くないんだよなあ。

嫌味言ってる時ルーシーがうわなんだこいつ最低みたいな反応してるのめちゃくちゃ好き。


バーバラさんが口滑らせて席に戻る時、怒るでもなく不信感でもなくただ目で追うだけのダニエル…


ここでメアリーいないのってやっぱりジョージに対する不信感の表れなのかな。

ダニエルも負けるのは知ってたみたいな反応だよね。勝てなかったことが悔しいってよりも、余計ラムを笑いものにしてしまったことにちょっと後悔してそう。

ジョージにスルーされるスーザンが悲しい。



愛さえあれば


親子のすれ違いの王道よね。お互いの気持ちわかって辛いなあ。

そりゃ心配だよ。自分がいつまで養えるか分からないのに、先行きに不安しかない弱小弁護士に嫁に出すの無条件OKはできないよね。

あと箱入りに育てすぎたって言ってた気がするから、ケイト自身の能力とか強さを低く見積もってたり、子どもはいつまでも小さい子どもだと思い込んでる感じもある。いいお父さんなんだけどなあ。

妻を幸せにできなかったっていう自覚はあるんだろうなと。だからこそケイトには幸せになってほしいって気持ちが大きすぎる感じがあるよね。


ケイトの、パパは全部に口出ししてくるし私の未来は私のものなんだから入ってこないでって気持ちもわかる。それこそ愛があれば辛くても生きていけるって本気で思ってそう。

挙句にママに酷い扱いたくさんしたのに今更何?っていうのも大きいよね。

うーん、すれ違い。でもぶつのはだめよ。



ママの涙


マクレガーさん、しばらく上手に滞在するんだけどずっと左手気にしてて切ない。痛いのはパパも一緒だもんね。でもぶつのはだめよ(大事なことなので)


アレックスの名前ここだけなんだっけ。好きな人の発話でだけ"アレックス"として存在できるのばかほどしんどいな。

施設の出だから家族のことはよくわからない反面、裁判を通して人は難しいって純粋に思ったりとか。

アレックスがちゃんとしてるのってマクレガーさんがしっかりした上司だからなんじゃないのって思った。

「能力あれば誰でも歓迎」が嘘じゃないってここでわかるよね。そういえばそこの歌詞でアレックスと頷き合ってた気もする。

血筋とか家柄にあまり忖度する人じゃないんだよ。そりゃ裁判長のこと嫌いだわ。


いやほんっっっとに曲がいい。名曲すぎ。神田さんのお声が美しいのよ。

ジョージよりも俯瞰して色んな人間関係を見てきたアレックスだからこそ、の歌。劇中で一番世の中を引いて見てる気がする。

家族も恋人も結局他人だし簡単にはいかないよね。の具体例が次の曲ですかね。



恩知らずの薄情者


ルーシーっていうか吉田さんめちゃくちゃ好きなんですよね。安定感えっぐい。ビブラートがばちばちに好みなのと、発話と歌唱の境目の幅が広いんすよ(伝われ)

しかし意見的にはボブ派ですね。お金じゃんじゃかあるなら話は別なんだけど共倒れするなら絶対やめた方がいい。

ボブ性格悪そうに見えちゃうし物を伝えるのが恐ろしく下手だとは思うけど、人ってわりとこんなもんだし現実見えてるキャラクターではあるんだよね。個人的にはわりと好きだったりする。

結婚相手の親のために働いてるわけじゃないし。言い方あるやろとは思うけど。

歌の最後の「一瞬にして変わるものなの」の「いっしゅん」が好きです。


あれ、ここの曲「不幸もいろいろ」とメロ一緒なのか。今気付いた。



自分らしく


やさぐれジョージ。

ケイトさんの私と一緒になるため?は若干天然出てない?それどころじゃないよね多分。

ジョージが人のために動けてたのは、どれだけポンコツでもちゃんと慕われてたからだろうなあ。それすらなくなってしまったのといよいよ経営がやばくなって正義を貫けなくなってる。

自分のスタンスを諦めてしまったというよりはいじけてヤケになってるだけって感じもあるよね。正直感情面でめちゃくちゃ扱いづらそうだしケイトさん苦労しそう軌道に乗っちゃえば大丈夫か。スーザンママおるし。


あの出席簿みたいなやつってそれなりに硬かった記憶あるけど、絶対痛いよね。渾身の正論パンチ(物理)は見ていて少し気持ち良くもある。

スーザンって金にならないことをするなとしか言ってないんだよね。報酬受け取らないのは論外すぎて想定してなかっただろうし、ジョージの信念自体は好きだから勤めてるんだろうなあ。



犬との約束


「もう自分を責めないで」はこれも親はそう言うしかないやつですね。それ以外言いようがない。

でも透けて見えるのが、ダニエルはずっと自分を責めてたのであってマクレガーさんを憎んでる感じがないってこと。強いて言えばシガークラブで笑いのネタにされたことを許してないくらいかな。

ラムが死んでしまったこと自体に関しては誰も責めることができなくて、矛先がないからそれが自分に向かう。それを収めろっていうのはちょっと酷だよね。自分を責めることでしか精神が救われてないのかもしれないから。

ダニエルの「ありがとう母さん」が痛い。

今まではダニエルの支えに少し甘えて依存してた感のあるメアリーが今度は完全に支える側になって強くなったなって思う。

強く生きてって言ってるのは自分なんだけど、ここにきて初めて自分の足だけで立ててるのはメアリーなんよな。


ラムへの語りかけがもうね、無理。ここ一番泣きそうになる。

「怖かったよね」じゃないんよ、ただ君を守りたかったのよ。

歌い出しの「君が」があり得んくらい優しくてしんどいね。辛さとか悲しさよりもただ思い出して記憶をなぞって、"好き""ありがとう"の比重が一番大きくてさ。

後列のオタク、推しと目が合ってる気がして双眼鏡の手ブレがやばい(いいやつ買えよ)

歌い終わりと同時に下に落ちてくみたいに表情が消えるのがたまらんよね。どれだけ目を逸らしても笑顔で約束しても、根本ラムはもういないっていう事実が根を張ってる感じ。


結局ダニエルの目的ってマクレガーさんへの制裁や謝罪が欲しいわけではなくて、みんなにラムを知ってもらいたい認めてほしいっていう方が大きいんですよね。街のためにとか人のためにとか、そこまで壮大な話でもなくて。

だから仮にまた負けてしまうかもしれなくてもそれを伝えられればいいって、再審に挑むことにしたんじゃないだろうか。



街中話題の裁判2


ジョージ、立派になって

犬飼ってたら心臓ドストレートなんだろうなあ。

スピーチの最後にダニエルが微笑んでるのもう感情がバグるのでやめてください(やめなくていいです)


マクレガーさんの改心ってここだけ見ると唐突すぎんか?と思うんだけど、ジョージのスピーチは「人の本質」とリンクするよね。

彼にはラムのような存在はいなかったからずっと孤独で、妻を幸せにできなかった引け目と娘の反抗に挟まれたまま毎日仕事の利害でしか寄ってこない人間を捌いていたから。そういう存在がどれだけ大事かはしっかり感じられる人だと思う。

そして自分の手で奪ってしまったラムの存在の大きさに気付いた時、それは頭下げるしかないよね。あとシガークラブで笑ったことも一緒に謝ってそう。


これが有罪判決になったのまじですごいと思ってて、罪状的には何になるんだろうか?今の日本なら器物損壊か、名誉毀損とかでもワンチャンなのかな。法律ガチ勢に聞きたい。

ただ忘れちゃいけないのが裁判長は別に公正な法の番人というわけではないってこと。あのスピーチと人々の様子を見て「これ有罪にしないと世間体がやばい」って思ったんじゃないかなあ…

立場的には裁判長の方が上だけど、何回かマクレガーさんの機嫌取ったり顔色伺ったりしてたあたり協力関係でいてくれないと困りはするのよね。

だから「なにかありますかな…?」は不自然なくらいビビり散らかしてたんじゃないかなと思う。

結果的に有罪でも無罪でもあのスピーチ出た時点で裁判長は負けです。


ダニエルも驚いてるあたりラムのことを伝えたかっただけで、まさか本当に勝てるとは思ってなかったんだろうな。

ジョージに抱きつく時かかと浮くのめちゃくちゃ可愛かったです。裁判長が「はっはっはヨヨヨ」ってなるの好き。慰めるトーマスとボブも好き。


ここのシーンちゃんとルーシーとボブが離れて座ってるの細かいよね。そういうのすごく好きです。


マクレガーさんにそういう意図があったかはわからないけど、野犬の保護っていう新しいやることがちゃんとあってよかったよね。切り替えのスイッチになるし、ラムがいた頃と変わらない日常のままだと精神がきつそう。

とはいえ面倒なことを押し付けられてしまったんじゃないか感はその…まあありますよね…でも悪意がある感じではないし、あっケイトさんの天然ってもしかして遺伝(失礼)


ただこれ、もしラムが天寿を全うしていたとしたら。

メアリーとダニエルはどうなっていたんだろうって考えてしまうね。

お別れは言えたかもしれないけど農場の経営は厳しいまま誤魔化しだけは効かなくなってくる。

どっちの方が良かったかは私には分かりません。



あなたの犬


一幕の終わりとはベースの曲も歌う人も一緒なのに、温度が全然違っていいよね。ちゃんと何かは変わりました。

一幕ではみんなバラバラなことをバラバラに歌ってたのに、終幕では同じ方向を見てるのもいいですね。

周りの人が歌い出してダニエルが泣いてしまうのがすごく刺さる。ジョージはいたけどダニエルにとっても孤独な戦いだったよね。

ラムを失った悲しみを誰かが理解してくれるだけで少しだけ軽くなる。周りがみんな「たかが犬でいつまで悲しんでるんだ」だったらきつい。


ダニエルの後ろでルーシーとボブ仲直りしてるんだけど、その一瞬だけ歌がないのよ。愛〜〜!!


悲しみは消えないけど」ってただ前向いて歩いてくだけじゃないのが安心する。それはそう。そんな簡単には切り替えられない。

ふとした時にうっかり名前を呼ぶだろうし、起き抜けに姿を探すだろうし、犬の群れの中にラムを見てしまうかもしれない。

事件がなくてもラムが寿命を迎えていたくらいの頃に、やっと何か追いついてくるのかな。

ほんと幸せになってほしい。



◯ラム目線で観劇して


初めて観た時、上手く言えないんだけど細かい話の流れがかなり独特な感じがしたんですよね。

ダニエルと接している人の言ってることがあんまり頭に入ってこないというか。その人が何を言っているかどうかじゃなくて、ダニエルの反応を元にして相手を形作ってる感じというか。

ダニエルのキャラクター性ってすごく自然に見えるんですよ。人目線で見るとよくわからない子だなと思わなくもないんですけど、ラム目線だとめちゃくちゃわかるんですよね。

対して周りにいる人たちってキャラが立ちすぎてるというか、感情の波が多少極端だったりする。まあフィクションなので当たり前といえば当たり前なんですけど。


つまり何が言いたいかというと、例えばジョージがダニエルに怒ってしまうシーンがありますよね。

普通に観てるとジョージがすごく怒って反射的に言ったことに対してダニエルが反発してるんですが、ラム目線だとなんか知らんけどダニエルがすごく怒ってる、この男が何か酷いことを言ったんだっていうイメージでジョージの見え方が極端になってる感じがする(伝われ)

逆に最後のマクレガーさんも、前振りがあったとはいえ改心が激早なのはダニエルが許したからラムからはそう見えたりしたんじゃないかなーとか。


ダニエルと他の登場人物で感情とか見え方のテンポ感が違うように感じたんですよね。

それは意図された物なのか、ダニエルが主人公だからたまたまそういう構成になってるのか、単に私がそう感じただけ説も濃厚なんですが。

ダニエルの感情の動き、生活のリズム、周囲との関わり方とそれに伴う登場人物の心情やキャラクター性がすごく丁寧に描かれてるなあと感じました。


これ、逆に普通の観客目線というか""目線だとジョージが主人公に見えるんですよね。

そしてダニエルはわりと何考えてるかよくわからない繊細な少年に見える。

ラム目線ではダニエルを中心にして世界が広がってるけど、人目線だとラムを含む周りの登場人物との交わりの中にダニエルの人間性が浮いて見えてくる。

人目線でダニエルという個人を独立させて見出すのは難しいんですよ。

正直事前に何も言われてなかったら犬目線で観ようとは思い付きもしなかったかもしれない。その立場で想像はしたかもしれないけど、目線で見るっていうのはまた種類が違う。


ラムと人と、色んな存在の目線から世界の解像度が上がっていくすごく面白いミュージカルでした。

それってこの物語の根本的なテーマともちょっとだけ交わっていたりして、なんかいいですよね(語彙よ)



◯トータルの感想とか


感動しましたか?と聞かれたら「しました」も「しなかった」もなんか違うなという感じです。

面白くも楽しくもあったんですけど、私のキャパを細かい要素が超えてしまってて一言での感想は難しいんですよね。そしてそれは「感動した」では恐らくないと思います。

だから上記やばい文字数になっちゃってるんですけども。

犬飼ってたら、子どもがいたら、とか共感要素が想像でしか補えなかったのもなくはないかもしれないです。


初見の感想ってたしか「難しい」だったんですがそれは今も変わらないですね。細かく人を見ていけばそれぞれ共感できるところはあるんですけど、それを踏まえても難しい。

最後に物語と人々の思いが束ねられた、まさにその留めているものの所在がわからないというか。いやそれはラムであり犬なんですけどそこまでは理解してるつもりでも全貌が掴めない。ずっともやもやはしてる。

でもそれはそれでいいのかなとは思うんですよ。だって社会って難しいし。

心を動かしたスピーチは同じものでも、登場人物も客席もそれぞれ思い描いた「犬」も共感したポイントも違う。それはこのミュージカルを観て「感動した!泣いた!」という方と私みたいな受け方をした人がいるのと同じように。テーマそのものが合う合わないもありますしね。


物事の起承転結ははっきりしてるけど細かい噛み合わせが地味に難しいストーリーは本書くのも大変そうだなあと思いました(誰)

観た人に引っ掛かりを残さずに納得させるのってかなり難易度高そうだなって…個人的には幻のめちゃくちゃ暗い版も観たい気持ちはあります笑


このミュージカルは実話が元になっているけど、もし実話じゃなかったら多分もっとフィクションを盛れるし一貫した"綺麗な"形にすることはできると思う。

でも実話だったから少し歪でその分生々しくて、作られた物語ほど素直に飲み込むことが難しい。だからこそそのちょっと歪んだ枠組みの中で煌めく命や信念が目に入って美しいと思わされる、そういう作品だったなと思うのです。


100%の感動じゃないと「面白かった、よかった」って言っちゃいけないわけではないんですよ。

それはアイドル推してても同じだなーと思います。推しは絶対褒めなきゃいけない、隅までつつき返して良いところを見つけなきゃいけない、いつも好きじゃないといけない、そんなことはないです。

直接手紙に書くとかなるとまた別なんですけど、思うのは自由だし感じ方を捻じ曲げてまで推すの苦しいじゃないですか。

今回で言えば「推しが主演だから良かったって言わないと、感動しないと泣かないと」みたいなのは逆に失礼だと思うんですよね。いや推し関係なく作品を観てくれ、と思う。

推しに「泣いた」報告をするために足を運んでるわけじゃないのよ。そんなん極論行かなくたってできる。せっかく観るなら貪欲に全部むしゃぶりつくした上で答えを出したい。

一応ですが本気で感動して泣いた方がどうこうみたいな話じゃないです。私も泣きかけたところはありましたしね。


好きなところは好き、面白かったところは面白かった、よくわからんところはわからん。全部感じたことであり感想ですよ。

それは作り手から感じ方を強制されるものではないし、受け手側で感想を統一させる必要もない。

色んな作品とかエンタメに触れて感じたこと、思ったことから自分とか他人、社会への理解度って深まってくと思うんですよね。

ハマりきった作品はもちろん捏ねるけど、今回みたいに難しいなって思ったものも「わかんねえ」からってポイ捨てするようなことはしたくないでございますよ。


誤解されそうなので再度言いますが「犬との約束」は難しくて面白くて、めちゃくちゃ楽しかったです!!!!



◯織山さんのオタク目線では


いやかわいいんよ。かなり前列で観られた日があって、話1ミリも入って来んのよ。

造形を把握しようと思って舐め回すようにして見てしまってすみません裁判中気まずそうにしてたのは裁判に対してだと信じたいよね。

考えながら観劇してることが多いんだけどあの日まじで知能指数3とかやった。あまりにも近すぎる前列あんまり向いてないかもしれん。

ダニエルはもっとサスペンダーをがっつり見せてくれてもええやで。いや見え隠れするのが良いっていうのもあるな…私はどっちも取れない(どっちでもいいよ)

考えながら、とは言ったけど実質働いてる脳みそなんて6割くらいで残りは「美少女ォ…」しか思ってないです。髪型もあるんだけどまじで終始美少女だった何あれ。


ただそれでも観てる時に織山さんのことを考えてるタイミングはほとんどないのがすごいな、と思う。

あくまでもダニエルが美少女でダニエルのサスペンダーに思いを馳せ、ダニエルの横顔が好きすぎて、綺麗な涙を落とすのはダニエルなんですよ(?)


慣れてはいけないと思っていても、お芝居に関してはあのレベルの高さに慣れかけてしまってる。毎回新鮮な気持ちで浸りたいすね

あまりにも自然すぎて、改めて芝居が上手いと思う余白がないみたいな。ずっとダニエルみたいな話と繋がるんですけど、芝居が上手い子だな、じゃなくてダニエルだな、なんですよね。

個人的には織山さんは映像作品よりも舞台派なんよね。その場その場で組み上げてく方がなんとなく合ってるんじゃないかなって。知らんけど。

歌はまだ全然成長できるなって感じではあるけどダニエルにはめちゃくちゃ合っててよかった。純朴な感じで。

いやあれ織山さんがどうっていうか一週間声枯れない他キャストの皆さんが何故??なんよ。プロってすげえなって

でも声が枯れてなかったら音程ばっちりはめてくるくらいの感じがあるの本当に安心できるんよね。頭では音を捕まえられてるのは聴けばわかる。逆に何ができないんだ、球技??


Twitterでのたうち回ってたけど、Kappaに関してはもう同じ位置で思い出さないようにしようって思った。

あれはあまりにも特別で、初主演でインパクトが強すぎたからいつまでも縋ってしまうけど。

推しが出てるって前提の上であそこまですんなり突き刺さってくる作品はもうないと覚悟をしておこうって。

どれだけ素晴らしい舞台もミュージカルも、隣に置いたら霞んでしまう。それは決して優劣や印象の強弱ではなくて、私がたまたますごく共鳴するものだったっていうだけの理由で。

そんな理由で正面から受け取れないのはもったいなすぎるし、無意識だろうとそもそも比べるようなこと自体が大変失礼だしね。


「犬が優しいのは飼い主にも誠意がある時だけ」みたいなことを言ったけど、それはアイドルとファンもそうなんですよ。

織山さんはよく「みんなが支えてくれるから」的なことを言うけれどそれは。あなたがそういう人だから、です。こちらも誰でも愛せる神のような人間ではない。

無機質な言い方をすると、応援するに値すると感じたから、お金を払う価値があると思ったから、織山さんから生み出されるものを信用しているから。

ぼかすなら「あなたが好きだ」と強く思ったから。

でもそれを無償の愛や見返りを求めない愛だとは思わないです。ちゃんと時間もお金もかけた分のもの、それ以上のものをもらっている。

アイドルは数多いるけれど織山尚大からしか受け取れないものがあるからあなたのことを推している。誰でもいいわけじゃない。


思ってた世界とはちょっと違ったんだけど、たしかに織山さんがいなかったら「犬との約束」の世界観に足を踏み入れることはなかったと思う。

日頃そうやってどれだけの事に気付かずに脇を通り過ぎてるのか、織山さんのオタクしてると自分の人生がめちゃくちゃもったいないような気がしてくるんよ。

でもそこから拓いていけることもある。

織山さんを見てるだけ、織山さんが見せてくれるものだけで頭打ちにしないで色んなことを考えていきたいよね。それが巡り巡ってまた彼の作り出すものの奥行きを作ったり解像度を高めたりしてくれる。楽しいなあ。


2022.4.26 (5.4追記)

「織山さん」という推しについて

色んなお声をいただく中で(多くはプラスです、ありがとうございます)、私にとって推しとは何ぞやというのがいい加減気になってしょうがないのでまとめます。

備忘録みたいなものです。強要するものでも同意を集めるためのものでもありません。




アイドルとは


特定の人物に対して理想像を纏わせたり、自分の良いように解釈したり。これを一般人相手にするのは危なかったり人間関係にヒビを入れる原因になりかねませんが、ことアイドルに関してはこれが許容される稀有な存在だなと思っています。

もちろん本人に理想像や希望を押し付けたり、最悪直接こうした方がいいなんて言うのは論外だと思います。でも偶像を投影されるプロに対して「ありのまま」や「現実」を見ようとしすぎるのは逆にもうちょい夢見てもいいのでは?と思ったりします。


そして、人をわかりやすく幸せにするキラキラした人種だけがアイドルかというとそんなこともないはずです。

たまに織山さんに「アイドル向いてない」という感想を持つ方も見かけますが、そうじゃろかと思うんですよね。

たしかに常時キラキラはしてないかもしれないし、常時安定して笑ってるわけではないかもしれない。でも私の気のせいだけじゃなく多くの方が「これが織山」と思う、その偶像が崩れないの私はけっこうすごいと思うんです。




推しとの向き合い方について


前提として現実に一人の人間として存在している織山尚大は、そのまま私の推しというわけではありません。

私の方から見えやすい部分を私のやりやすい方法で可視化させていっているにすぎないので、本人とは少なからずズレがあって然るべきなのです。


わかりやすく言うと本人が原作及び原作者なら、私のは二次創作に描かれる該当キャラというのが一番ふさわしいでしょうね。

いくら解像度を高めようと、作者がどういう意図でそのキャラを描いているのか。またはこの台詞は大事だけどこの動作はそこまで意識してない、なんてこともあると思います。そこを埋めるのは不可能です。作者でないので。

二次創作に描かれるキャラクターたちは限りなく原作キャラに近く、ほとんど同じビジュアルで話し、予想される思考回路で物を考えるわけですが、決してオリジナルにはなり得ないのです。


さらに例えるなら国語における「筆者や登場人物の心情を答えなさい」に存在する模範解答()ですよね。本当にそうなのかもしれないしそうじゃないかもしれない、近いのか遠いのかは作者にしかわからない。直接聞いていない限り、語っていない限り、解答を作った人間も"限りなく近付ける"しかしようがないんです。

私の解釈が模範解答だとか言ってるんじゃないですよ、例えの話です。




解釈の暴走について


ある日急にスッと冷める時がありますよね。

私の場合は自分の解釈に基づいて作られた「二次創作」と「原作」の乖離が一定を越えた時です。これは二次元三次元問わず起こります。

言い換えれば「解釈違い」というやつなのですが、正直本人たちは思うまま人生や作品を残しているだけなので。

つまり私が気付かないうちに自分の理想の方に逸れていっているだけで、冷めるというより急に見失うのです。そしてある日突然、と思いたいだけで逸れていることには薄々気付いていることが多いです。

触りすぎてベタついてきたことに気付いたら、最近はその何者なのかもよくわからなくなってしまったもの、を可能な限り早めに放流するようにしています。




自分の解釈について


本来の織山さんは心配されたがりだし普通の人生を歩みたかったしダンスは苦しいだけだしジャニーズに居続けるは建前かもしれない。

でもそれは私の推しとは違うし、こればっかりは多くのオタクの解釈とも違うと思います。でも「そうかもしれない」可能性はゼロではないんですよ。逆に私や誰かの解釈が一致している可能性もまたゼロではありません。

でも仮に解釈が合っていたとしてもそれは確認のしようがありませんし、まあどうせ私の妄想だけどな!の予防線は常に必要だと思っています。


ただ私がそういう風に思っていても、受け取る側が本家について語ってるのか二次創作の方についてなのか判断するのはわりと難しいです。それは正直しょうがないと思いますし、私も誰かの解釈や感想を読む時はそこまで考えていません。

奇跡的にまだ「織山くんはそんなこと思っても考えてもないです、決めつけないでください」案件は来たことがないのですが、思ったことがある方はいるだろうなと。心の内に留めておいていただきありがとうございます。私もそう思います。


決めつけに見えたなら私の書き方が悪いしそれは申し訳ないんですが、本気で本人がそう考えてると思ってるわけではないですしわかるもんでもないです。

私が「わかる」と言うのは自分のフィルターを通した上での話なので、彼の意図通りに伝わっているとは限りません。

なんだってそうなのですが、お互いの齟齬なく「わかる」ためにはかなり細かいすり合わせが必要です。

そうでないなら自分が受け取り、自分が解釈したものに「わかる」と言っているだけにすぎないので、そもそもわかる確率なんて高くて当たり前なんですよね。


私の語る織山さんは、ふざけたりおちゃらけたり騒いだりはあんまりしないはずなんですよ。

でもそれは原作を読んだ時点で好みにそんなに引っかからなかった部分であって、そこが嫌いとかなくしてほしいというわけではありません。語っていないだけでちゃんといますよ。あまり触れないだけです。


本人から生み出されるものはぜんぶ原作だと思っています。素っぽい時も意味深なブログの時もキラキラアイドルの時も、どれが本当の彼なのか?なんて的外れな疑問であって、いや全部やろとしか言えません。

誰だって常に同じ状態ではなく、むしろ一定だったら怖いです。

いかに本人が本当の自分じゃないとまで言おうとも、オタクの虚妄とは一線を画していますよ。だって妄想じゃないので。逆に当事者は原作以外にはなれないんです。




私の解釈の傾向


大体の方が察していると思いますが、多少なりとも自分に投影してる部分はあると思います。どれだけしないように気をつけていても気のせいとか自意識過剰とか思おうとしても、どこかで重ね合わせてる部分があるのは事実ですし、してないと言ったら嘘になります。

織山さんに限らず、二次元三次元男女問わず、自分は推しに自己投影をしがちな傾向があるなというのは数年前に否定するのを諦めました。というのも、人物やキャラクターに対しては共感由来でないと興味が長続きしないらしいのです。

もちろん自分に重なる人間なんてほとんどいないのが当たり前なので、今までも解釈を大幅に逸らして脱輪、自然消滅の流れがお約束ルートになっていました。

ただ、織山さんに関してはそこの溝がほとんどなく(あくまでも私の二次創作上であって本人は知らないですが)、共感できる部分が歴代の推しの中ではトップレベルに多いなと思っています。




私との解釈違いについて


これもまたよく言う話ですが、同じ日本語でも使ってる言語が違うことがあります。

こいつ何言ってるかわからんな、と思う方がいても当然だと思いますし、逆に何言ってるかわからんと言われてもそうですかとしか返せません。

私の中では理解していて、ごく一部であっても理解してくださる方がいるならそれでいいです。

万人に伝わる言語を話すのは難しいですし、私はその言語で織山さんを説明できないです。


リアルと違ってSNSというのは見たくない人間を物理的に見ないことが可能ですので、私を無理だなと思った時点でシャットアウトしてくださると大変助かります。

これも言いがちなのですが、二次創作のイメージが原作に付くことは私の本意ではありません。




最後に


何をどう言おうが、言い訳に聞こえる方も違和感を持つ方もいると思います。結局自分のいいようにこねくり回してるだけじゃんと。

私もこれが正しい楽しみ方かどうかはわからないのですが、少なくとも織山さん(原作者)の想定する色んな

楽しみ方の一つから逸れてはいないんじゃないかなと思っています。作品の解釈については特にです。


原作を飛び越えた解釈をすることがあっても、原作者へのリスペクトはいつだって持っていますよ。

原作がなければ二次創作はできません。織山さんがそもそもいなければ、共感もできないしわかることもできない。救われることもできない。

どんなに都合のいい解釈をしようと勝手にわかろうと、原作者の織山尚大を忘れることはないです。

パフォーマンスから人に興味を持つことは私の中ではかなり稀で、そればっかりは原作以外で代替物を用意することはできない。いつだって取りに行かないといけない。

それが楽しい。離れられない。目が離せない。


「考える」を許してくれる君が好きです。


以上です。


2021.8.29

空想科学劇『Kappa』東京公演を終えて-織山のオタクの愉快な一週間-

感想本編後ろにくっつけていたうるせえオタク語りが際限なく伸びていくので隔離です。さすがに。


※個人の解釈であり、織山さんの人間性および性格、考えていたことを断定する意図はございません。



◆6/5観劇、ブログ後

◆6/12夜公演後

◆6/13千穐楽

◆観劇を終えて






◆6/5観劇、ブログ後


ハマり役だなって思いましたよね。私も思いました。それはそう。なんなら本人も言ってる。ただリンクしすぎてて大丈夫?とはなった。

初日の終幕後に公開されたブログ、織山尚大が言ってるのか第23号が言ってるのか混ざってんのかわからなかったんですよね。一般的な平和も幸福も停滞にしかならない、自分はそこにはいられないっていう覚悟と痛みに打ちのめされました。


でも今までの言動を省みると、ただ向上心がバキバキに高いポジティブな意識高い系ってわけではないんですよね。痛覚はむしろ人並み以上で、それでも歩くのをやめないからずっと傷だらけでずっと痛がってるような気がする。


でも、彼はその先にある楽しさを知ってしまってるんですよ。これ以上ないくらい詰め込んで精密に積み上げて、それが本番で爆発するその楽しさ。舞台に一緒にいる人間と溶け合う感覚。息をするのも忘れて観ている客と独特の張り詰めた空気と。やり直しが効かない、一回きりの、何度も踏んだ道を最高速で駆け抜けていく。どうしようもなく湧き上がる行き場のない高揚感を。いつだったか生きてるって感じがすると語ったその言葉通りに。

今回だと一番はマッグの歌とバッグのトランペットのシーンかな。あー今めっちゃ推し、生きてるって思いました。


彼にとっては痛みも苦しみも含めて生であって、それは必要なものでしかない。でも辛い時は辛いし体にも出て、ボロボロになって、でも楽しいんだと。客席と舞台と、一緒になって磨いていくのが喜びだと。

のっぺりした幸せに追いつかれないように必死に走っているような。痛がるくせに自身の平和や幸福を躊躇する。


インタビューで彼は第23号は自分自身だと言ったけれど彼の周りには似た人が多い気がするし、そのへんの価値観が違ったとしても理解者はいる。第23号よりはきっと孤独ではない気はしている。

でも河童の国に帰りたいと泣く彼は、全てに疲れて一歩も動けない、極限に孤独な人間そのものだった。

あれ、出るもんなんですかね。その辺のもはや感情かどうかもわからない痛みを、実体験として知らなくてああ泣けるもんなんですかね。千穐楽絶対泣くが私。無理だもんあんなの。

バッグが迎えに来てくれる度に第23号を通して織山さん自身が救われてたらいいなと思います。そう思うしかない。

仮に同じことの繰り返しで何度彼が絶望したってあの瞬間に彼が救われたことは確かだし、バッグを追って退場する時の笑顔は心の底から安心した顔だった。


いやほんと幸せになってくれ。削った命はこっちで勝手に拾って一喜一憂しておくので、いや今ご本人のせいでめっちゃしんどいけど一応楽しさも喜びもそれ以上にあるから。

表現というものへの誠実さ。真摯に情熱をもって傷つきながら進んでいく。その辺の不器用さとか融通の効かなさ、手を抜けないズルもできない。でも、だからオタクは織山尚大から目が離せないんですよ。

まじ、推すなら今。


とりあえず織山さんがしんどすぎる、親指立てて溶鉱炉に沈んでやろうかって気分だわ。


Kappaっていう舞台自体もまた言うまでもなく最高ですよ。

河童たちは人間より人間味があって憎めなくて魅力的。音楽も最高オブ最高。演出はもちろんドストライク。小気味のいいテンポ感と鷲掴みにされて揺さぶられる感情と。

残りも噛み締めます。最高です。再演しません??




◆6/12夜公演後


あのー、とんでもねえぞ。織山尚大ほんととんでもねえ。

終幕後にTwitterにぴゃーって書き殴ったのが以下となるのですが



大変きびしんどいが織山さんに沼落ちしてからずっと見たかったものを見られたような気がする。コントロールの範囲外、人として踏み越えてはいけない線をぎりぎり越えてた。出ちゃいけないものが出ていた。なんかこう、魂的なものが。命ってこうやって削るんだなと。



ほんとにこれなんですよ。今まで命削ってるって言っても限度はぎりぎりあって、多分やばいラインは超えてなかったんですよ。

白衣を脱いで踊りだして昼よりだいぶ飛ばしてんなと思ったのですが、まさか意識まで飛ばしかけると思わないじゃないですか。

舞台上でこんな倒れ方したの初めてじゃないですかね。曲の最初から今までで1,2を争うほど気合が入っていて、振りも場所も少しずつ違い、立ち位置からよろけて後ろのハコに手をついて。立った反動で踏ん張れず前に倒れたという感じで。

本気で仕様か事故かわからなかったしとりあえず呼吸を確認するなどしました。そこからよろよろ立ち上がって前を向いた時にはもう登山に出かけた青年の顔をしていました。


23号を表現しているというよりは、舞台の上で後悔をしたくないという強い思いだけで踊っているような。今回の舞台は今回しかできない。もうここで何か切れてしまってもいい、それよりもやり残したくないという気持ちなのか思いなのか、本能なのか。


夜公演は、織山さんの統制下に役があって上手く乗り移らせているというより、第23号が動かない演者の体を動かしているような感覚さえしました。

限界はとっくに超えているけれど、彼の中に形作られた第23号の骨格がかろうじて体を動かしているような。

意識もはっきりしていたのかよくわからず、表情は作って台詞も聞き取れはするのですが、どこかなぞっているだけで目もうつろだった気がします。

手を抜いているとかいうことでは全くなくて、もう倒れる一歩手前なのを第23号自身が場を繋いでいるような印象でした。


カーテンコールでも最後までなかなか笑顔の浮かぶタイミングがなくて、ぎりぎりで立って動いている感じでしたね。限界なのか終わりが近づいて寂しいのかまでは本人でないのでわかりませんが。


無音はちょっともう言えることないです。しんどすぎて泣けもしませんでした。

仮面の話を6/9時点でちらっとしているのですが、変更後の振りだと今まで外してきた仮面を付け直して飲み込むけど、自身が拒絶して吐き戻すという感じですね。何者にもなれない孤独感を正面から(正面ではないけど)食らって、息を潜めることしかできませんでした。

希望は幻としてしか現れず、神かもわからないものに懇願して、でも無駄で。前にも進めない、元にも戻れない。ただ帰りたい。

いやまじ誰だよハッピーになってほしいとか言ったやつ。


千穐楽逝ってきます。




◆6/13千穐楽


「知ってる」織山さんだった。魂ちゃんとあった。よかった。

織山尚大と第23号が互いを支え合ってるようで、間違いなく東京公演のベストだったと思う。何度も通った道を、ベストを更新しながらなぞっていく。

いや怖いけどほんと楽しかっただろうなと。緊張感がすごかった。全員の集中力で空気が締まっていて、そこから生まれる隙のない余裕からアドリブもたくさんあって。


カテコでの挨拶は、知ってたって感じですね。うん知ってるだから好きなんだよって。

よく織山さん楽しそうって言ってしまうんだけどそれは楽しいだけじゃないんですよね。なんかあの、苦しさとか焦りとかプレッシャーとか全部乗っかった状態で出てくる純度100%の楽しさってあるじゃないですか。ウワッ今めっちゃ楽しい、みたいなやつ。

びびったら負けだと投げやりではなくジャストなタイミングで飛び込み続けて、その集中してる感じと絶対日常で使わない器官が動いてる感じ。

それを知っているからこそ、死にたくなったってそれを舞台の上に持っていけるし緊張が緊張で終わらない。


今回死にたくなったっていうのは主演っていう立場、出ずっぱりな役どころっていうのともう一つ。役が第23号だったからっていうのが大きかったんだろうなと。

織山さんって役に対する解像度がめちゃくちゃ高くて、わかりづらい見えづらい人間でも端から噛み砕いて意識を浸透させてしまうんですよね。やわやわにして入り込んでいるというか。

自分の方に合わせてるんじゃなくて、ちょうどいい真ん中を探ってそこに馴染ませていく。


それで今回は第23号、さらに言えば晩年の芥川龍之介にそれをしていたわけで、そりゃメンタルが平常なまま生活はできないですよ。それはそう、当たり前。

経験してなくてできるもんなのかと思ってたけど、その入り込みと同調と多分ほんの少しの実体験であれを降ろしてしまった。いや、怖いよほんと。

織山さんがちょっと自制心ポイしたら取り返しつかないところまで行くことはありえなくないし、実際12日夜にちょっと線越えてたし。

人の不安や絶望、孤独を一人で抱え込んで、いやそんな人間に安眠できないんですとか言われてもせやろなとしか返せないわ。


睡眠不足も体力の限界も痛みも本当にきつかっただろうなと思うけど、だからこそ今日の客席と最後のどでかい拍手が本当の意味でこの舞台を「楽しかった」にしてくれたと思います。素晴らしい仕上げでした。

ちょっと運動不足の腕の筋肉がだいぶ悲鳴あげてたけど、私もクソデカ拍手送れて良かったなって思います。


第23号を織山さんに戻したのは客だったよちゃんと。どれだけきつくてもこうやって戻ってくる場所があるから立てるんだよ。だからオタクもどれだけ織山担苦しくてもちゃんと頑張れ。支えるんだあのとんでもない存在を。正面から見て、負けるな。オタクならできる。

織山さんは強いよ。内側にはやわやわに弱ってるところも多分あるけど、本人はギリギリでそこを守る方法を知ってる。だから守りに行かなくてもいい。

ただアイドルの織山さんの帰る場所であってほしい。

アイドルは偶像だけど神じゃない。絶対に一人にしてはいけないんだ。


本日ラスト、Smileがかかってバッグが捌けて。

後を追った第23号は恐らく笑っていませんでした。

ああ、まだ河童の国には行かない気なんだなと思って。あの瞬間だけは織山さんだった気がします。




◆観劇を終えて


いやとにかく楽しかったですね。

ハッピーとかどの口が、とずっと思ってたけどめちゃくちゃ楽しかったです。ハッピーと楽しいは別ですよ。

正直河童初日週、昔の嫌なこと散々思い出してメンタルがふあっふあだったのですが吹っ飛ばされましたね。

とにかくこういうエンタメとしても楽しめて、頭ごりごりに使って考える余白もある舞台で本当に良かったです。好きなやつじゃん!!!!でした。好きです。


青木さんも初舞台とは全然思えなくて。めちゃくちゃ河童だったし、あの主演と俳優さんに囲まれて呑まれることもなくむしろ存在感を残していたのが印象的でした。

毎回演奏する曲やアレンジを変えたり、あの濃っっっい舞台の中で青木さんの存在が本当に癒しでしたね。あっぱれ。ブラボー。かわいい。


織山さんに関しては、基本的に自分が思ってる推しの姿と本当の彼は別物だと思っていますし、そうで然るべきだと考えています。いますが。

織山さんってこうなんだろうな、がだいたいそうで困るんですよね。たまには違ってくれないと頭おかしくなりそうです。勝手に理想を詰め込んでるだけなのにそれが反映されていく怖さというか。


もしも織山さんが本当に私の思ってる通りの人間だとしたら今の傾向はちょっと不安なんですよね。そうなっても困るのでそこに関しては語りませんが。

だからこそ織山さんはアイドルであってほしい。深く深く囚われそうなもの以外にもたくさん足場を作って、表現を長く続けてほしいんですよ。

他の仕事では作り得ない大量のファンを、バランスよく逃げ場とプレッシャーにして上手いことやっていってほしい。切実に。


自分にそこまで信用がないので、正直いつまで織山さんの方を向いているかはわかりません。ずっとかもしれないしそうじゃないかもしれない。

でも、今はとにかく目が離せないですね。そして仮にいつか離れることになったとしても、あらゆる彼の姿を決して忘れることはないと思います。


生きることを誰よりも知っていて、終わりがあることをわかっている。その何のフィルターも通さないクリアな世界が怖くて綺麗で、少しだけ羨ましくもあり。

推しとか担当以上に興味深く、観察をやめることができない。面白くて楽しい。

それが詰まった舞台でした。一片の悔いなし。


2021.6.13


空想科学劇『Kappa』と『河童』-第23号はどこへ行くのか-

はじめに


書かないつもりだったんですがあまりにもしんどくて書かざるをえないんですよねこんなの。

観劇された皆様におかれましては本当に、お疲れ様でした。


お恥ずかしながら『河童』は今回初めて読みましたし、ゲーテニーチェも触っておりません。全体的にカスみたいな知識しかないので本当に原作を読んで、舞台を見て何を感じたのかのみになります。

ニーチェは読む予定ではあるのですがあれを落とし込むのにアホみたいな時間かかりそうなので今回は省きます。


原作はベースにするのみで、解釈はほぼ今回の舞台についてであるとさせてください。解釈が分かれるところもありますので。

全体的にブワッて書いたので言葉がなんか汚いです。

Twitterぐらいの汚さです。


説が三段構成になっているのでちとわかりづらいかもしれません。

全体的に言いたいことをドカドカ塗りたくっているだけなので理論のりの字もないです。


※今回は火の顔よりは感想寄りかもしれません





内容


◯6/8版

◇河童の国とは

・河童の世界

・行きと帰りの違い


◇登場人物について

5人の河童と5人の白衣

・第23号とバッグ

・バッグとマッグ

・第23号とマッグ

・マッグの遺書


◇第23号が求めたものと行く末

・登場した河童たち

・手に入らないもの

・行く末


◯6/9版

 第23号と河童の国と、人間の世界について(殴り書き)


◯6/8版と6/9版の違いについて

◇根本的な違い


◇細かい違いについて

5人の立ち位置

・行きと帰り


◇第23号とは

・第23号の内面

・名前について


◯6/13版

芥川龍之介と『河童』の世界


◇色について


◇Smile








◯6/8版

◇河童の国とは


・河童の世界


原作を読んだ時、第23号さん思ったよりヤベエ人やなと思いました。精神病について詳しくないので基準は分かりませんが、ただの幻覚や作り話にしてはあまりにも詳細すぎるからです。

なぜあそこまで設定や各々の思想が細かく、なおかつ確固たるものなのか。それは第23号があの繰り返しの日常の中でずっとずっと頭の中で考えていた思考がそのまま反映されているからではないでしょうか。


河童の国は人間の世界とあらゆることが違います。第23号はその文化に新鮮に驚き、時に受け入れ、時には反発します。

彼の「こうであったらいいのに」がそのまま現れていたり、単に人間界の逆を空想し、それに対してどう思うのかを河童と問答したりもします。

河童の国は第23号によって、本当に理想の世界にすることだってできるはずなのですが。彼は理想で満たされた世界をそのまま享受することはしませんでした。そこには一々疑問があり、時に人間の世界と何が違うんだと結論付いたりもするのです。


実在するかで言ったら、全ての人間が行ける世界ではないと言う意味では実在はしないはずです。ただ、第23号の中には確かにその記憶が、出会った河童たちが存在していると解釈します。

実在しないから存在しないなんてナンセンスな、つまんねえ話はないです。彼があると言ったら彼の世界には存在するのです。



・行きと帰りの違い


23号は河童の国にいる間、自分が第23号であることは忘れています。自分がまるで「普通」に生活する「普通」の人間代表であるかのように振る舞うのです。

行きは趣味の山登りで河童に出会って、帰りは自らの意思で帰ってきます。もし自分が置かれた環境と第23号という生活を前提にできていたら、帰りたいとは思わなかったかもしれないですね。

後悔をしないようにとバッグが釘を刺したのは、そういう意味もあったかもしれません。河童の国が人間の世界と変わらなかったとしても、受け入れてくれる仲間の有無は大きなものですから。


河童の国に行って5人の河童に取り囲まれる構図と、人間の世界に戻ってから5人の白衣に囲まれる構図。

同じはずなのに第23号の孤立感の対比が浮き彫りになって、ここの差が個人的にはかなりグッときました。




◇登場人物について


5人の河童と5人の白衣


舞台では第23号は精神病棟もしくは何かしらの研究施設のような場所に入れられています。病院の場合であっても、患者は恐らく第23号のみとなります。

両脇の2人も患者である可能性はありますが、最後に彼を取り囲むシーンでは他の3人と立場が同等のような印象を受けるため患者でない方が自然な気がしました。

共に食事を取る2人と質問を投げかける1人、これは父と兄弟、母に見立てた擬似の家族ではないでしょうか。毎日家族と食卓を共にし、同じようなループを繰り返すことで治療をしていくような。重ねてになりますが全く詳しくないのでそういう治療法があるのか、それで効果があるのかも全く知らんです。


人間の世界にいる第23号の周りには常にこの5人しかいません。毎日毎日同じことを繰り返し、さらにあの精神状態だったらあの5人以外の顔がわからなくなってもおかしくはないのかなと思います。

また、よろしくない研究施設等の場合はそもそも生まれた段階であの5人しか知らないということも考えられます。

それらを踏まえると、河童が5人しか登場せず顔も全く一緒であることにも納得がいきます。どれだけ理想の世界だったとしても、彼には当てはめることができる顔がその5パターンしかなかったのです。



・第23号とバッグ


バッグは原作とは大きく異なり、最後に第23号が河童の国を出る際の老河童も兼ねています。

老人として生まれ、赤ん坊になって消えていく。そんな奇特な運命を背負った河童なのですが、だからこそ人間界と交わることができるのではないでしょうか。逆さまの存在である彼は、河童の国からしたら逆さである人間の世界に行くことができた。

この奇病はたまに発生し、また河童の国に来る人間も少数です。人間の世界に行き、人間に会うことができる河童はこの病を持った者だけだったのかもしれません。

そして第23号もまた人間の世界では大きく外れた人間のため、この2人が出会い、最後にバッグが迎えに来るのも必然と言えます。



・バッグとマッグ


バッグの病については隠し子云々の煽りから見ても伏せられていることがわかります。また、バッグは若く見えますが60歳くらいでマッグも年老いた河童です。

マッグは「天涯孤独」であるにも関わらず、「家族を捨てることができない」と言うのです。それが家族や結婚、子どもへの憧れの意味なのか実際の家族なのかまではわかりませんが。白衣の状態でも恐らく父子の関係を演じていることから、この2人は血縁関係として設定されているのかもとなんとなく思いました。



・第23号とマッグ


マッグは舞台でかなり大きな役割を果たしています。

第23号が人間の世界に帰るきっかけとなるのはもちろん、他にも引っかかったところがありました。

人間の生活や文化を笑う他の4人と比べ、マッグにはほとんどその様子がありません。また、あなたは河童でないからわからないと言ったり、逆さに世界を覗いてみたり。河童の生活のためには他の存在が必要だと言ったり。河童にとってはギャグですが、第23号が本気で考え込む本を書いたり。


人間の対極として配置された他の河童たちよりも遥かに人間というか、第23号の根本の疑問そのものに近い存在のような気がします。

都合のいい理想にストッパーをかけるような。自分を幸福だとした第23号に、マッグは幸福に見えますか?と投げ返します。

その疑問がいなくなってしまった。理想や空想ばかりが加速して、本来彼が探し求めていたものははっきりと見えなくなってしまったのではないでしょうか。

そして、第23号の理性の部分、慎重な部分に最も近い存在が河童の世界を拒んだことで、この世界の奇妙な点ばかりが浮き彫りになり信頼が多少揺らいでしまったのではと考えられます。



・マッグの遺書


こちら、聞いたもしくは読んだ時にあれ?と思いませんでしたか。第23号はそんな谷を通って河童の国に来たのではないでしょうか。世界の境界を越えて。

23号が人間の世界を離れて河童の国に足を踏み入れたのと同じように、マッグもまた河童の国を自らの意思で離れたのです。

原作はさておき舞台上のマッグは、バッグに連れられ河童の国に戻った後の第23号自身ではなかったのかと思ったり思わなかったりするのです。

マッグを食べるシーンで、Smileのボーカルと伴奏を抜いた(多分)インストだけが流れます。なぜでしょうか。舞台の最後、第23号がバッグについていく時と同じ曲がなぜここでも流れる必要があるのでしょうか。


境界の越え方と曲と、ほぼ一致するこの2人は一体なんなのでしょう。別にマッグは実際に谷に向かったわけではありません。ではなぜあんな遺書を遺したのか。

かつて河童の国に迷い込んだ時の自分が記憶にあったからではないですか。またあの時の刺激を求めて、でも河童の国というこれ以上動けないところまで来てしまったから、自殺をするしかなかった。

それでも目の前の過去の自分に対しては逆さまにしたって同じだし、自分は幸せではないとは言うのです。同じ道を辿ってほしくなかったから。

そんなマッグの死だったからこそ、第23号を「我々」人間の世界に帰りたいという気にさせたのではないでしょうか。


また、遺書を舞台上そこまで関わりのないバッグに送ったのも、これならぎりぎり納得できるかなと思います。バッグは全て知った上で「マッグは孤独だった」と言うのです。

逆行して生きるバッグであれば、他の河童が持ち得ない記憶を持ったり時間遡行ができてもおかしくないのではと思うのです。




◇第23号が求めたものと行く末


・登場した河童たち


一応河童の国にも「普通」の河童はいて、そこに関する話も触れられてはいます。しかし第23号が仲良くなった河童というのは5人とも少し変わり者というか。恐らくあれが一般的な河童5人だったとしたらああはならなかったのではないでしょうか。

彼が仮に鬼の国とか、天狗の国を歩いたとしても同じだったはずです。どんなに人間と違う風変わりな世界であったとしても、彼は無意識の内にその世界の中でもはみ出した存在を求めるのです。

23号の理想はニつあって、一つは社会そのものの決まり事に納得できるかどうか。もう一つははぐれ者でも受け入れられ幸せに暮らせるかどうかだったのかもしれません。



・手に入らないもの


23号が原作と同じく精神病であった場合、彼は人間の世界では異常者です。しかし恐らく本来そこまで一人を好むタイプではありません。河童の国では積極的に交流をし、わからないものに対する好奇心も相当なものです。

人間の決まり事や息苦しさに辟易しつつ、どこかで受け入れてくれる存在を、この気持ち悪さを分かち合える存在を求めていたのかもしれません。


また、河童の国での彼は自分が普通の人間であるかのように振舞います。社交的ではつらつとして人当たりが良い人物像。

もしかしたら河童の国を訪れた青年自身も、第23号が思い描いた理想の自分の姿だったのかもしれないですね。

普段から人と交流をしているにしては、異言語ということを抜きにしても少しぎこちない部分もあった気がします。それは経験していないことはわからないからではないでしょうか。


彼にとってはそれこそが幸福で、河童の国の日常のような平和な時の流れを求めていた。もっと言えば、それらを手に入れた上でそれでも幸せになれるのかどうかを考えていた。

しかし、それは結局手に入ることはありませんでした。


先にも述べましたが、河童たちの言葉は全てもともと第23号の頭にあったものと考えられます。

逆さまの世界をああだこうだと歩き回り、考え、結局は何もかも違う世界であっても人間と同じだと。普通とはみ出し者は存在し、幸福は苦痛で平和は倦怠を伴い、しかしそれを羨まずにはいられないと、気付かないふりをすることはできなかったのです。

トックが家族を羨ましがるのも、マッグが追われる雄に憧れるのも、第23号自身がずっとずっと人間の世界で抱いていた感覚に他ならないのではないでしょうか。


河童の国にいる間は、彼自身よりもきっと河童たちの方が本来の第23号に近い存在だったのかもしれないと思います。

そう考えると彼はずっと理想の自分を演じながら現行の自身とひたすら問答をしているわけで、その世界に理想や安定を求めること自体が空虚というか。

理想の自分が存在する時点で今の自分は型落ちでしかないわけですから、人間の世界よりはもちろん居心地はいいでしょうけれど、彼の探すものはきっとどこにもないのだろうと思います。

そして第23号は幸福を求めつつ幸福になりたいわけでは恐らくないので、そこが落とし所になるのかもしれません。



・行く末


この舞台はSmileから始まってSmileで終わります。

加えて、医者か研究者かわかりませんが、白衣の一人がまた一からやり直しだと言うのです。「また」とはどういうことなのでしょうか。

河童と出会った彼は、最後バッグに連れられて永久にそちらにいることになったと考えると、ではこちら側に残った第23号はなんなのでしょうか。


バッグに連れられ河童の国に戻った時点で第23号は一度リセットされます。河童の国を知っている彼は人間の世界にもう戻ってこないからです。

これを精神的な死と捉えるかは人によると思いますが、青木さんがインタビューで河童は天使っぽいと答えていたのがなるほどと思いました。


彼はまた山登りの好きな青年として初めてバッグという河童に出会うのかもしれません。

河童の国に来た時に特に白衣の記憶がなかったということは、間に時間を挟まずラストシーンから冒頭バッグとの出会いまで地続きの可能性すらありますね。

ずっとずっと同じことを繰り返していく。それを嫌ったはずの彼自身がこのループから抜け出せない。個人的にはこちらの方が好きかもしれません。


バッグとの出会い(n回目)

↓ 一瞬

バッグと河童の国への別れ、発狂

↓ 1年間

河童の国に戻る、記憶リセット

↓ ?

バッグとの出会い(n +1回目)




◯6/9版

 第23号と河童の国と、人間の世界について(観劇を終えての備忘録)


今日のラストの無音のシーンで誰かを抱きしめたの、あ、自分自身かもしれないって思ったんですよ。でも掴めなかったんですよ。一瞬バッグかもしれないとも思ったんですけどなんというか、違うかなって。

それで、ああ自分かってなって、顔を覆って。どこからどこまでが自分かわからない。あらゆることを考えすぎて、自分を追いすぎて自己が分裂している。顔が見えない。

で、さっき思ったんですけど。いやそもそもどっから?河童の国が頭の中なのはとっくにわかってる、わかってるけど違くない?最初の施設もじゃない?見捨てた5人が自分自身では?だから前後も何もわからなくなって呻くことしかできない。自身が会話すら放棄してしまったから。

最後にバッグと交わされる会話っていうのは、想像はできるけど何を言ってるかはわからない。その他を置き去りにして、より深淵に近い場所に向かっている気がする。

彼の中身の中には、河童の国に行くのが許せない存在がいるんだ。彼が彼なりに幸せになるのを許せない存在が。人間としての正義がなぜか存在している。

生まれたくなかった子どもは人間かもしれない。舞台上指されたのは彼自身で、原作での物言いというのはもっと直接的。第23号のことを指差してこいつが嫌いだという自分自身。

5人の河童と5人の白衣と、それ以外に顔を出す存在と。彼の中には何人いるんだろうか。多重人格ではない。同じ人格の中で異なる価値観と主義主張が傷付け合っている。ギリギリのバランスで立っていたものが崩壊して、それぞれの主張はまるでコントロールが効かない。気休め程度の拠り所ですらなくなってしまった。

そして、無音の踊り。施設が実在したら良かった。彼はちゃんと一つの柱を持っていて、彼がおかしくなってしまったのは施設のせいにできた。でも違う。ここにあるのは、ただ無音の中で狂っていく人間が一人。数十秒、たったそれだけの舞台だった。




◯6/8版と6/9版の違いについて

 結局お前は何が言いたいんだ問題


我ながらこんがらがってきたので整理しますね。

まず、6/8時点でのループ説と6/9のまるっとごった煮説は全く別です。互いに前提にすらなりません。




◇根本的な違い


一見すると、ただ脳内のみでしか存在していないシーンが増えただけで私も最初はそう思っていましたが全然違いました。


両方とも同じ場所にあるということは、施設と河童の国が完全に分離していないということになります。この二つは全く対等な立場で論争を繰り返している。

外的に抑圧する存在としてあった施設から逃れるための河童の国であるとするよりもより第23号の辛さと孤独感が増しますね。


彼を普通の人間に矯正しようとしていたのも、自分らしく幸せになりたいと望んだのも彼自身であり、両者が全く交わることなく平行線のまま和解は最後までありません。

そしてその外側では普通の人間が普通の生活をしていたのでしょう。施設という、受け入れはしなくとも彼がどういう人間か把握だけはしていた存在すら、実在していなかったのです。




◇細かい違いについて


5人の立ち位置


6/8時点では知っている顔のレパートリーがこれしかないから顔が同じなのだと語りましたが、こちらの設定だとそんなことはどうでもいいですね。5もいりません、顔が全部同じでもいいくらいです。全て自分なのですから。


河童に囲まれるシーンと白衣に囲まれるシーン、こちらに関しては6/7の観劇時にうっすら思いついたことが無理なく言えそうで嬉しいです。

もし施設が実在していたら時系列的に少々無理があったのですが、あの二つのシーンは同時に存在している可能性があります。裏表、同じ場所に同じタイミングで存在していて、互いを覗き込んでいる。

だから河童の国にいる彼も施設にいる彼も原地の言葉を喋ることができず、完全に観察の対象になっているのではないでしょうか。そして人間側は相手を冷たく切り捨てて、河童側は馬鹿だなあと笑います。


ただし、人間側は河童のことを知りませんが河童は人間のことを知っているのです。河童は人間を知った上で河童はいいぞと言います。理由をつけて、こっちの方がいいと。

対して人間は河童の存在を否定し、根本から切り捨ててしまいます。それは少しでも隙を見せたら全てそちら側に傾倒するのがわかっていたからではないでしょうか。

河童側に傾くことへの恐怖心。河童など知らない、我々は律して人間として生きなければならないという冷たい焦りを感じます。



・行きと帰り


23号だったことを知らない、もしくは忘れているのではありませんでした。彼は本当に人間側の代表として河童の国に訪れたのです。フラットな状態で逆の世界を見たかったから。

彼はバッグの目を冷徹な目だと言いました。最初は完全に人間側の視点しか持っていません。それが河童の国で変わっていきだんだん馴染んできてしまう。そしてマッグという理性の死をもって帰ってきます。


このマッグの役割と立ち位置についてはそこまで差はありません。ただ河童の国だけが脳内だったというところから、その範囲が広がっただけなので。

基本的に河童の国の解釈の方は同じですね。


ニュートラルな存在であったはずのものが河童の言葉しか話せなくなった時点で人間側としては用済みです。そちら側は人間に順応したいので、また実験が失敗したというような、やっぱりなという諦めのような冷たさで対応します。




◇第23号について


・第23号の内面


脳内ではなく、無音で踊ったあの存在自身の話です。

あんなにも必死に人間に縋っている時点で「普通の」人間ではありません。この社会に疑問を持ち、生きづらく、ただそれでも普通が羨ましくて幸せを求め、世界を諦めて捨てることができない。


河童の国に行く際仮面を外すような仕草をします(毎回ではないですが)。そしてキツネのポーズ。これは変身ではないでしょうか。仮面なんてつけているから、本当の自分でないから息がしづらいのだと。

ただ人は誰しも仮面を被って生きています。まるっきり本当の自分とやらで社会に飛び出している人間など恐らくいません。それでも第23号は仮面を取ってしまった。その状態でも河童の国には完全に馴染むことはできませんでした。それはそうです、仮面をつけていない河童たちですら、それぞれ少しずつその社会からはみ出しながら生きていたのですから。


無音の空間で顔を覆った彼にはもう顔が残っていなかったのではないでしょうか。つけている仮面をむしり取ったところで本当の自分などおらず、全て取り払ったところには虚無しかありません。

自分の顔がわからない。自分が誰かわからない。自分自身ですら、他人に見えてきて気味が悪い。でも剥がす仮面はもうない。


暴れ回ったのが嘘のように立ち尽くす彼は、服の裾を握り肩が上がり、まるで怒られて震える子どものようです。冒頭「怒られるわよ」と言われたそれは社会にか神にか、それとも自分自身にだったのかそれはわかりません。

先にも述べましたが、彼の中にいかに人間と河童が混在していようと彼は本来河童側に傾きやすい人間です。それを必死に人間側に矯正している。


そして自らを失った彼の前にバッグが現れます。何もかもわからなくなってしまった彼にとっては大きな足掛かりでした。

河童語がわからないので、あそこで何が交わされたのかは我々にはわかりません。しかし彼にしてみれば大きな救いだったに違いありません。例え存在していなくても。


9日公演から、振りが変わりました。それまでは暴れ回るような、見えない何かと戦っているような振りだったのですが。折り返しで誰かを見つけて抱きしめて、でも幻だと気付いて絶望するようなものに変わっていました。

彼は会いたい存在に出逢ったら抱きしめる選択肢を持つ人間だということがわかります。でもバッグにはしなかった。触りもしなかったのです。それはなぜでしょう。

存在しないということを確認したくなかったからではないでしょうか。本当はバッグという河童など存在しないことに、気付いていたからではないでしょうか。

そこまでわかっていても、彼はバッグを消さないようにただ泣きじゃくるのです。


23号自身は死んでしまったのか、廃人になったのか、河童の国に行った存在だけが消えてしまったのか。そこに答えを出す気はありません。わからんとしか言いようがないからです。



・名前について


23号という名前について、原作を読んだときに思うところがあったので溢しておきます。芥川の専門家ではないので彼関連のことはよくわかりませんし、すでになぜ「23」でなければならなかったのかの論文などがありましたらごめんなさい。絶対にそっちを読んだ方がいいです。


Kappaはローマ字です。いやそれはそうなのですが、河童と書かれて「かっぱ」と読まない人は少ないですし、そう読ませたいだけなら「かっぱ」と書いても問題はないはずなのです。

ローマ字に何か意味があるのかなと思って23番目のアルファベットを数えたところ、Wでした。人間(Man)の逆なんですよね。偶然にしてはなるほどなと納得してしまったのと、23はアルファベットの中で一番大きい素数です。

逆さの人間でどうしようもなく割りきれない。第23号がああいう存在であったのは彼が第23号であったからではないでしょうか。




◯6/13版

芥川龍之介と『河童』の世界


さて、千穐楽1時間ほど前にとんでもないのが投下されました。

スズカツさんは事前に芥川の頭の中を描いたと仰ってはいましたが。主演本人から芥川を演じているつもりだと語られました。

これは大変なことですよ。6/9版でだいぶしっくりきていたものが根本からひっくりかえされました。拾い直しです。


つまりどういうことなのか。

もし織山尚大が演じたのが芥川本人であるならば。河童の世界にいた時間というのは『河童』の執筆期間だったのではないでしょうか。


河童の国を訪れた青年に白衣の記憶がないのも当たり前ですね。そもそも本の中の話なのですから。


施設は変わらず脳内の話か日常の圧縮で問題なさそうではあるのですが、そうなってくると別れとラストが大問題です。

バッグとの別れは執筆の終了を意味します。終わった話は続きを語れないのです。続編を書こうが似た物語を書こうが、同じ世界には二度と入れません。

『河童』を終わらせて本当にいいのか、でも彼は後悔しないと宣言しました。物書きとして話は終わらせないといけません。


芥川の人間性や生涯に関してはご存知の方も少なくないと思いますし、ググれば山ほど出てくるのですぐわかると思います。あんな感じです。

私もあまり詳しくはないので違うところがあったらごめんなさい。

「ぼんやりした不安」に追われ、日常が息苦しく、身体の不調に悩まされて。そんな中でも執筆という創作活動をやめなかった人間の精神状況など察するに余りあるというか、察したくないというか。


人間の皮膚の匂。

これは言葉通りの意味もあるとは思いますが、それぞれ不器用に、でも自分を隠さず伸び伸び生きていた河童と比べて何重にも皮を被って生きている人間が、ひどく気味が悪く見えたからではないでしょうか。

そして誰よりも色んな考え、登場人物を棲まわせた自分の"皮膚"自家中毒を起こし逃げることもできない。

たとえどこに行ったって同じだとしても、己の皮一枚で生きていける世界に戻りたかったのではないでしょうか。


最後の第23号の慟哭は芥川そのものだったのでしょう。本の登場人物ではなく、芥川自身の苦しみが、いや苦しみなんてものではないでしょうか。

もう何も、天地もわからないほどの気持ちの悪さ、落ち着かず暴れ回る思考。『河童』を書いていた時だけは逃れられていたのかもしれません。それを自らの手で終わらせてしまった。


迎えにきたバッグが存在しないとわかっていたのも当然ですね。作中の登場人物(河童?)が現実に現れるわけないのですから。

でも彼はそれを追いかけました。河童の国に行った時のように。足を引きずって。

こちらでも彼がどうなったか断定はできません。解釈次第だと思います。


第23号が求めたものに関しては6/8版からそんなに変化はないと思います。

ただ、あの白い衣装を着たのが芥川であったとされただけですっきり片付く絡まりが多すぎます。


なぜ第23号はバッグとの別れであそこまで涙を流したのか。彼が第23号ではなかったからですよ。

書いている本人であれば物語が終わりに向かっていることくらいわかると思います。バッグの運命に心を打たれていたのではなく、その先の必ず訪れる別れに対して。

わかっていて、それでも終わらせるしかなかった。



◇色について


登場人物(河童)6人はそれぞれ特徴的な色を纏っています。

白、赤、黄、緑、青、そして黒。靴に注目してみると、その色のものではなく元々白だったものに着色しているのがわかるのですが、これは河童もまた第23号自身だったからではないでしょうか。


他の色はともかく、特に気になるのが白と黒です。

元々白衣の一部だった第23号が白なのは納得できますが、あのカラフルな世界でバッグの黒は浮いています。

黒は何色を混ぜても黒のままです。これ以上変えようのないどうしようもない、終点の色。芥川にとってあの老いた河童はそういう存在だったのかもしれません。

河童の世界を歩き切った第23号の前に現れた、究極の幸福。それでもその背景にあるのは生まれ持った"特異""不幸"でした。

幸せそうに見えて、河童の中では孤独であり。人間とは正反対の変わった河童たちの中でも公表できないほどの奇病。

ただひたすらに穏やかなだけの、静かに死んでいく運命は「幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴う」の象徴だったのかもしれません。


それを目の当たりにした第23号は帰る決意をより強固なものにします。

23号の衣装は白で、これは本当にフラットな人間であることを表していたのではないでしょうか。からっぽで何もわからない、染まるしかない存在。

舞台上でペンキをかけるわけにはいかないのでずっと白のままではありますが、戻った後の彼は色んな色が混ざり合ってそれはもう散々な有り様だったのではないかと思います。

綺麗な色に、何者かになりたかったのになれなくて。もう何の色にもなれない。


白衣は汚い色になるくらいならと守っていた存在でもあったのかもしれません。

白衣を邪魔だとでもいうように脱ぎ捨てた第23号は戻ってきても白衣を着ることはありません。もう元には戻れないのです。



◇Smile


こちら、チャールズ・チャップリン無声映画「モダン・タイムス」のBGMの一部で映画の公開から約20年後に歌詞付きでリリースされた楽曲となります。


映画の内容は機械化する社会への風刺がメインで、工場で歯車のように働く機械工から話は始まります。

毎日毎日ボルトを締め続けていた彼は次第に様子がおかしくなり、精神病院に放り込まれます。

そこから退院し、ひょんなことから刑務所に入るのですが出所までは省きます。

出所して職を探していた彼は万引きをした浮浪少女を助け、それをきっかけにニ人での生活が始まりました。

上手く軌道に乗り始める生活ですが、彼女の元に児童鑑別所からの追手が迫ります。

せっかく掴んだ職場からも逃走し、彼らは何もかも失ってしまいました。

泣き出す彼女を励まし、彼らは再び歩き出そうと何もない広大な道をニ人きりで歩いていきます。


そしてこのエンディングでSmileの原型の曲が流れるのですが、状況が『Kappa』のラストシーンと重ならないでしょうか。


歌詞には細かくは触れませんが、以下内の一節になります。


You'll find that life is still worthwhile

If you just smile


いやこれほんとに無理じゃんと思って私は頭を抱えたのですが、どうでしょうか。

芥川の辿った生涯と、舞台の終わり方と。もう皮肉でもなく一周回って美しいなとまで思いました。

いくらラストシーンが重なろうとそこにいるのは芥川一人きり。希望を持って笑って、生きるんだという歌が不思議と虚しさを含まずに流れていたのはやはりバッグ(天使)のおかげだったのでしょうか。






おわりに


もっと突っ込めるところも原作と比較できるところもいくらでもあるのですが、今回はちょっと余白を残しておきたいなという気分です。


何もまとまっていませんが、まとめる話ではない気もしているのでこれでよしとさせてください。

誰かに読んでもらいたいというよりは、頭の中で詰まったものを一つ一つ並べ立てただけという感じですね。

でも本当に楽しかったです。


2021.6.13

「火の顔」原作から舞台へ –構造と演出についての一考–

◇はじめに


お久しぶりです。海藻です。

いつぞやのツイートで「普通」の線を踏み越えたら一言でまとめられなくなると言った、一言でまとめられなくなった部分が以下になります。


事前に「火の顔」新野守広氏翻訳の原作と、吉祥寺シアターで舞台を数回拝見したのみとなりますので演出や舞台上の台詞など多少記憶違いを起こしていたりするかと思いますが、ご了承いただけますと幸いです。

原作読了後の感想は舞台演出と密接に関わっていて内容が被りますので、そちら単体の所感などは今回は省きます。


また、ドイツという国に造詣が深くないため宗教や家庭、歴史、一般常識などその辺りもとんちんかんなことを言っていたら誠に申し訳ございません。

観劇2回目なんすわ!なクソ雑魚舞台ビギナーであることもどうかご承知おきください。


最重要

キャストに触れる意図がここにはありません。公開当時の時代背景や原作者の人生にも触れません。

話の中で、舞台の上で何が起きていたのか。私がそれをどういう構造だと解釈したのかの一点のみとなります。

正しい解釈でも多角的な考察でもございません。

ど素人のただのぼやきに留まるということは念頭に置いていただけますと幸いです。


上記よろしければ以下にどうぞ。




 登場人物を取り巻く関係について

◇クルトとオルガ

姉弟を繋ぎ止めるもの


◇クルトについて

◯クルトと母、生まれた時の話

◯クルトと父

◯クルトの部屋

・独裁者

Kurt Cobain

Banksy


◇オルガについて

◯光

◯オルガとパウル

◯スクリーンの女

◯最後にパウルを選んだオルガ

◯オルガの部屋

・退屈そうな少女

・オルガの机


◆家族の記号について

◯舞台上の配置

◯ハンスとパウル

◯母親について ※後日加筆


◆「炎」について

ヘラクレイトスの哲学 ※後日加筆

◯爆弾の作り方

◯静寂 ※後日加筆


◆舞台上の演出について

◯照明 ※後日加筆

◯音と曲

・始まりの時間の流れ

・使用楽曲と心情表現 ※後日加筆

・曲名について ※後日加筆


◇終幕





◆登場人物を取り巻く関係について


◇クルトとオルガ


2人で放火に向かい2人で両親を殴り殺したこの姉弟は一見「思春期」をこじらせて煮詰めてしまった似た存在のように感じてしまう。最後の姉の行動が裏切りだという感想もあるだろう。

しかし、私個人としては真逆の方向に動き続ける正反対な存在であるように感じており、その矢印に当てはめると様々な行動に合点がいく構造となっている。


クルトが繰り返し誕生と自分が生まれた時の話をしたがるのに対し、オルガはそんなことどうでもいいと、「最悪の時期」とまで表現し幼い頃の話を嫌う。

思春期という位置から誕生(過去)に向かうのがクルトで変化(未来)に向かうのがオルガ。ただオルガの望む未来というのは必ずしも「大人」になることではない。親を煩わしく感じ、外に変化を求め続けている。

クルトは成長に伴う変化を忌避して、オルガは変化を求めて、方向は真逆に引っ張り合っているのに両親に代表される「大人」を嫌うエネルギーだけは合致している。


オルガはあくまでもクルトを弟、または共犯者、もしくは変化をもたらす者として認識しているように見えるが、クルトは違った。そもそもオルガを他人として認識していない。部外者でも家族でも姉でもなく、自らと存在を分け合った自分自身として、合わせて「1」だと考えている。彼にとってオルガとのセックスは性処理ではなくて一旦ばらばらになって1つの存在に溶け合うための、ある種神聖な儀式のように映っていたのかもしれない。


この姉弟の生きているスピードは逆方向に同じであるように思う。2人が話している時に、両親とパウルの動きがスローになるシーンがあった。酒を酌み交わす男たち、身繕いをする母親、舞台奥と手前では全く別の速度で世界が動いていたのである。



姉弟を繋ぎ止めるもの


本来別方向に動くものが手を繋ぐ必要はない。この2人を繋ぎ止めるものはなんなのだろうか。

クルトとオルガは正反対の運動をしており、恐らくより速度が近い、または距離が近すぎると停滞する。停滞とはすなわち静止である。この2人のちょうど真ん中には動かない何がいるのである。

この話の中で動かないものといえば家、両親。また、クルトは誕生に相当なこだわりを持っていることから、同じ人間同じ場所から産まれてきたオルガに執着していたとも考えられる。

最後に2人の運動がそれぞれの方向に一気に加速してしまったのは、両親を殺害することにより自らこの楔を引き抜いてしまったからではないだろうか。

クルトの言う「ボルト」は皮肉にも両親の存在であったわけだが、彼はそれを認識できず壊してしまうのだ。

死体となった両親は動かずベッドに寝たままでもいいわけだが、わざわざ動いて舞台上から退場したのは一家離散、姉弟の別離の暗示だったのかもしれない。



◇クルトについて


彼を思春期の一言で表すのは難しい。結局のところ彼は何を望んだのか。

彼は両親を「考えることを放棄している」と表現し、時に「あいつら」と呼ぶ。止まったものは炎を有していない、死んでいる。彼にとって両親は動き回る死体のような存在だった。

実際に、父親は積極的に新聞を読み知識を得ようとしているが目が滑っていっているだけで「わからない」「どういうことだ」と頻繁に言う。死人に知識は役に立たないのだ。

クルトは、このまま彼らの言いなりに成長すれば、自分も姉もそのような冷え切った存在になってしまうかもしれないという漠然とした恐れに焦っていたように見える。



◯クルトと母、生まれた時の話


原作読了時彼について最も印象に残ったのは、彼の言う「生まれた時の話」と母親のそれの食い違いである。クルトは繰り返し覚えていると語るのだが、ずっと「ない話」をしていることになる。逆子だった彼は生まれた時からすでに誕生に向かって逆流していたのかもしれない。

お化け屋敷の話だけが唯一母親の記憶と合致している。外に出た時に真っ暗だったのは彼が目を閉じていたから。チカチカした光を感じたのは瞳孔を照らされていたからである。

目も口も閉じたまま逆位置で生まれてきた子ども。「今もあのときのまま」という言葉通り、彼は密閉されたまま絶えず逆行し続けていた。


その時を覚えているというわりには、姉の身体の感触に驚き「忘れてしまった」と言う。どうやらはっきり記憶にあるのではなく、そうであったに違いないという理想や思い込みで上塗りしてしまっているようだ。



◯クルトと父


クルトは親を疎み関わりたがらないが、母親に関してはまだ会話をしたり体に触れさせたり、拒絶の度合いが低いように感じる。同性である父親という存在は彼にとって自分の行く末、このままではいつか到達してしまう死地のように見えていたのだろうか。オルガは真逆で、母親に対する拒絶が顕著である。


だが、仮にクルトが大人になる道を選んだとしたら父親と同じになっていたのかもしれないと思う箇所があった。売春婦殺害事件に大きく興味を示し、眠りもせずに新聞をよむ父親と放っておかれる母親。一方でこれを読まなきゃいけないと本を読み続けるクルトと放っておかれるオルガ。忌み嫌う大人と似た部分があるのである。

クルトの方面に強く引かれる時、オルガは停滞してしまう。また、世の流れに置いていかれたくないという消極的な理由ではあるものの、かろうじてWISSEN(知識)にかじりつく父親とそれについていけない静止した母親。内情はそれぞれ異なるにせよ、状況と配置だけはやけに似通っている。



◯クルトの部屋


・独裁者


舞台上殊更に目をひき、しばしば場面の象徴のように照らされるヒトラーの肖像と鉤十字の腕章。

言わずもがな独裁者といえば、というような独裁の象徴である。

この肖像に最初に大きくフォーカスが当たるのはどこか。クルトが対立する2つの力に言及するシーンであり、オルガと並び立ち歩く際にはヒトラーの演説録音音声が再生される。

その後パウルに出て行けと命令するシーンでは、クルトの言うことをオルガが復唱するような構図になっている。オルガは他人の命令をそのまま武器として使い、異なる要素を上乗せして攻撃するのだ。

これは独裁者と独裁を受ける者の縮図であるようにも見える。ヒトラーは人心を掌握するのが上手かったと言われており、暴力や恐怖による抑圧を根底に敷きつつ巧みな演説とアメで人々を洗脳し懐柔した。

オルガがクルトに反発しないのはこういった一種の魅力があったからかもしれない。

このパウルとの対立シーンを見た時に違和感があり、原作を読み返したところなんとクルトがいない。ただオルガとパウルの会話が書いてあるのみである。ここにおけるクルトの台詞というのは実際にその場で言っているのではなく、もうオルガが彼の統制下に置かれ半分彼の言葉で喋っていたという風に理解した。


舞台も終盤、取り残されたオルガと叔母の元で生活するクルトが手紙のやりとりをするシーンがある。

本来関係のないはずのヒトラーにここでもピンスポットが当たっているのだ。そしてオルガは枕を抱えたまま動けない日々の様子を吐き出し続ける。クルトはその場にいないはずなのに、彼に支配され続けているのだ。

そしてオルガの手紙が終わり、舞台奥からクルトが歩いて出てくる。そのタイミングでスポットが消える。まるで入れ替わって出てきたかのように。


さて、このヒトラーの要素は突然降って沸いたわけではない。

酔っ払ったパウルがふらふら歩き回り酒を飲み、姉弟に絡んでくだを巻くシーン。テーブルの上に立ち、主役のようなスポットライトを浴びるクルトにパウルが「ハイル・ヒトラー」のポーズをふざけて取るのだ。お前はちっぽけでくだらない独裁者気取りだと揶揄したのかもしれないが、酔っ払いの行動の中でこの敬礼だけが変わらずしっかりと存在していたのは、舞台上に独裁者が誕生したことを示唆していたとも考えられる。


公演日程の途中から、最後にクルトがガソリンタンクを取りに行く際に肖像を故意に倒す動きが定着していたようである。あの行動はただ物質としての肖像画を衝動でなぎ払ったのではない。

あれはオルガが出て行ったことによってもう独裁者でいる必要がなくなった、独裁を敷く相手がいなくなったという象徴の消失。もっと言えばオルガが完全に別個体であり自分の支配の下から逃げ出したことを自覚した瞬間である。独裁は相手がいなければ成立しないのだ。

もしくは、彼が初めてそのシンボルを認識して直接触れたことを考えると、自分はヒトラーとは違うという大きな主張の表れでもあったのかもしれない。自分は負けない。自分は死なない。躊躇なく爆発し必ずやり遂げてみせると。


Kurt Cobain


ベッドの脇に置かれた男性の白黒写真。これはアメリカのミュージシャンKurt Cobainのものである。

名前がクルトと同じであることは見てわかるのだが、彼は若くして自ら命を絶った(と言われている)伝説のロックスターであり、そして写真もただの写真ではない。これは彼の死後に作られた追悼Tシャツに使われている、象徴的な写真なのである。


また彼の所属していたバンドはNirvanaといい、仏教用語の「涅槃」に由来する。バンド名決定の理由は意味重視ではなく、響きの美しさに惹かれたからと言われている。こちらのKurtもまた、無意識下で「死」にある種の美しさや安らぎを感じていたのかもしれない。


彼が残した遺書には一部次の言葉が綴られていた。"it's better to burn out than to fade away."

もしKurt Cobainを知っている人間が火の顔のストーリーを全く知らずに劇場に足を運んだとして、あの写真を見た瞬間にクルトの死を予感する。そんなことがあるかもしれないと思うだけで背筋が震え口角が上がってしまうのであるが、個人的な感想は一旦脇に置いておく。



Banksy


爆弾を作るためだろうか、様々な実験用具が置かれた棚の上にバンクシーのアートが飾られている。

花束を投げようとする男が描かれているものと、五輪から赤の輪を持ち去る男が描かれた2枚である。


1枚目。本来この姿勢で投げるものといえば火炎瓶、手榴弾催涙弾等おおよそ穏やかでないものばかりである。破壊を撒くその手で平和を投げろという非暴力、平和へのメッセージなのか。はたまた暴徒(批判の意図ではなく)は花束(平和)を投げるつもりで火炎瓶を投げている、平和を掴むには力を以って巨悪を打ち倒さなければという思いで武器を投げているという皮肉にも取れる。


2枚目。オリンピック、パラリンピックといえば平和の象徴である。その裏側や実情はさておき、あらゆる人種、あらゆる立場の人々が一堂に会し共通のルールの元でフェアに競う「平和の祭典」だ。

絵の中ではそんな五輪から男が赤を持ち去っている。

クルトが赤()をもって平和を脅かしているということなのだろうか。


個人的には2枚とも、協調や平和に向かって歩を進めているはずのクルトに対する強烈な皮肉であるように感じるのだ。

また、バンクシーの作品は受け取り手によって解釈が大きく異なるように思う。都合よく解釈して盲信することが可能ということである。これは後の要素にも絡んでくるが、ひとまず先に進む。


バンクシーの作品にタイトルが付けられているか確認が取れなかったが、もし正式なタイトルがあったら申し訳ない。



◇オルガについて


◯光を灯せないオルガ


両親がベッドサイドの明かりを、パウルが懐中電灯を使うのに対してクルトとオルガは人工の光を扱わない。

特にクルトが光をもたらす時はマッチにしろライターにしろ必ず炎を使い、人工の(冷たい死んだ)光は使わない。

オルガはそもそも自ら光を灯すことができない。クルトの炎に照らされ、パウルの電灯に照らされながら、自ら生み出すことをしない。クルトに置いていかれた日、どこに行けばいいのと言った。明かりがないと見えない。行き先がわからないと動けないからである。

それでもオルガは光を灯すことができない。



◯オルガとパウル


オルガの行動は一貫性がないように見えて、常に光を求めているように思う。

彼女が必死に探しているのは変化。親から、家から出たい。この囲いの中から出たい。クルトに比べると、こちらの方が一般的な思春期という感じがする。


そんな彼女にとってその変化、非日常の方向にトップスピードで走っていたのがパウルであった。パウルは両親と違って止まっていない。バイクは動いている。動いている機械は熱く、生きているのだ。親の囲いの外で生きるパウルは全く「違うスピード」で動いていたのである。

オルガはバイクに乗ってるからパウルを好きになったんじゃないと言ったが、本当にそうだろうか。彼が暴言を吐いて一時的にオルガと決別する前に、バイクが売り払われるという出来事があった。

散歩に行かないかという誘いをはぐらかし、売却が発覚すれば、その場しのぎの嘘でそこまで怒るだろうかというほどオルガは癇癪を起こすのだ。

自分の向かいたいベクトルに加速をつけるバイクは、彼女が思っていたよりも大きな要素だったのである。

その後転がるようにして2人の関係は悪化していく。


ただしパウルは「スピードを感じるのって最高」と言い、同方向に進むオルガを加速の要素として扱っているように思う。また、親との関係が良くない彼にとってこの家族の両親というのは理想の家庭だったのかもしれない。



◯スクリーンの女


オルガの語る話で印象的なのが映画館のエピソードである。もしかしたら実際この映画があるのかもしれないが、知識不足で全容がわからなかったため彼女の言及した範囲で考えてみる。

普通に映画を観ていて、普通に何も起こらなかった。パウルがキスをしてくるまでは。スクリーンの上の女はどんどん動きが鈍くぎこちなくなり、ついには静止してしまう。

この速度の変化は、オルガが急激にパウルの方に引っ張られたからではないだろうか。とするとこの女というのは過去に伸びる矢印の方向にいた存在ということになる。そして止まったまま跡形もなく燃えてしまった。風もないのに必死に押さえていた帽子は、オルガが感じていた両親からの窮屈な干渉だったのだろうか。クルトやパウルに振り回されているように見えて、彼女もまた自分の進むべき方向にたしかに歩を進めていたのだ。

オルガがパウルとセックスをしても何も変わらなかったと喚くのは、それよりも劇的なこの場面があったからではないかと思う。



◯最後にパウルを選んだオルガ


両親が死に、楔も取れたオルガ。明かりが灯ることもなく静寂で満たされた密閉空間に、今度こそどうしたらいいのかわからないようだ。

そこに自転車のベルの音が響いて一筋の光が差す。そしてパウルとのやりとりが始まる。最初はクルトの言葉を忠実に繰り返し、彼を追い出そうとするのだが最後に「わかった」と叫んでしまった。ぎりぎりの状態からはみ出た決壊の始まりである。

そして直後、なぜ余計なことを言ったのかと問うたクルトに今度は「わかんない」と返す。2人のかろうじて噛み合っていた歯車が狂いだし、その綻びは決定的なものとなってしまった。



◯オルガの部屋


・退屈そうな少女


彼女を象徴するような絵画が舞台上に置かれていたので少し触れさせてもらう。

「夢見るテレーズ」、フランスの画家バルテュスが描いた少女の絵画である。気怠げな少女が無防備に下着を晒し、どこかぼんやりした様子で物思いに耽っているような。バルテュスが何を描きたかったのか、隠されているかもしれない意味等にはここでは触れない。

この絵画には、メトロポリタン美術館に展示される際に性的だとか相応しくないとかで、1万人を超える撤去要請の署名が集まったという過去がある。子どもを性から守りたい、ある種子どもを汚したくないといった「大人」の主張がほとんどであったようだ。

対して額縁の中の少女は我関せずといった様子で、下着が見えていることに気付いているかすらわからない。「大人」が勝手に破廉恥だなんだと騒ぎ立て、問題を大きくしていることを鬱陶しそうにしているようにさえ見える。

まるであれもこれも性的だと言って回る方がよっぽど気持ちが悪い、私の身体は私のものだ、子ども扱いするなとオルガが主張しているようだ。



・オルガの机


部屋に置かれた彼女の机には、ごてごてと様々なイラストや写真が貼られている。その全てをきれいに観察することは難しかったのだが、人間の顔やバストアップが多く、特に目のイメージをかなり強く感じた。

また、この机はどうやら鏡台のようなのだが顔の輪郭も写さないほどに濁っている。そして人の目がその周りを取り囲む。

オルガは自分で自分を見ることができない。他人の目によってしか存在を確認できないのだ。実際に自分が

大人かどうかを母親に尋ねたりしている。


クルトは他人に影響されるな、断ち切れと主張する。他人の目に映る自分など所詮他人であると。だがこの舞台の上で最も変化を求め、外部からの干渉を気にしているのはオルガのようである。

彼らは根本的に真逆なのだ。



◆家族の記号について


◯舞台上の配置


冒頭、クルトは上手客席側で最初の台詞を発する。「生まれた時」の話をしながらマッチで火を灯すのである。この時オルガはクルトより下手側、両親はその奥でそれぞれ父親が上手側、母親が下手側に立っている。全ての始まりはこの位置だった。

この四角形は食卓の座り位置にも共通しており、この家族が家族として存在するための重要な配置なのではないかと思う。


しかし、両親は寝室でもその並びで寝ているのに対して姉弟はどうだろうか。クルトの部屋は下手でオルガの部屋は上手である。

パイプが橋渡しをしてはいるが、両親の寝室と家族の食卓が置かれた奥側、クルトとオルガの部屋がある客席側で関係が致命的なねじれを生んでいるのだ。舞台が始まった時からずっと、この家族はひずみを抱えながら進んでいくのである。


この歪みが決定的に現れたのが、父親がクルトに叔母のところに行くよう説得するシーン。四角形の頂点が1つ欠ける。家族の一角が崩れることを象徴するように4つの椅子がばらばらに投げ出され、テーブルは舞台にひっくり返された。かろうじて家族の形を保っていた食卓の破壊である。もうこの家族は元には戻らないのだ。



◯ハンスとパウル


子どもたちや妻にはそこまで大きな反応を示さず、なんなら殺人事件と新聞の方が興味がありそうな父親ハンス。

そんな彼が唯一はしゃいで話し、酒を酌み交わすのがパウルである。ハンスはパウルに男同士だ、と言いクルトを思春期と呼ぶ。この差はかなり興味深く、彼の舞台上の振る舞いにも現れているように思う。

舞台では父親は名乗らなかったような気がしたのだが、彼にはハンスという名前がある。パウルに対してはハンスと呼んでくれと、父親の記号を捨てるのだ。


パウルと話したり酒を飲む時のハンスは上手側奥の「父親の席」に座らない。テーブルの上や他の椅子に座っている。反対に、父親の席に座っている時はハンスの呼びかけに応じない。


この父親の記号の有無が最もわかりやすいのが子どもの起こした事件に対する反応である。

クルトの炎が発露したスズメ(原作ではツグミ)の死体発見の際、父親はそれぐらい気にするなと、クルトはそんなことはしないだろうと言って母親の主張に取り合わない。この時も鞄を父親の席に置いている。

学校に放火をした際もお前はまだましなどと茶化して、そこまで大きな反応をしないのだ。しかし、パウルの持ち物が燃やされた時。この時の彼は父親ではなくハンスである。ハンスは怒り狂い、テロには屈しないと叫ぶのだ。



◯母親について ※後日加筆



◆「炎」について


ヘラクレイトスの哲学 後日加筆



◯爆弾の作り方


密閉。ただ密閉すること。ここが最重要だそう。

爆弾そのものもそうだが、クルトは何と言っただろうか。目も耳も口も閉じてやれ、と。これが人体における密閉以外の何なのか。耳から煙を出し口から火を吹く、人の形をした爆弾だ。

また、終盤では家そのものが爆弾になっている。窓もドアも閉め切り、クルトは誰も入れないと言い続ける。「失敗」しかけたのは密閉状態が綻びたからだが、結果としてはパウルとオルガという異物の排除にも成功し、かなり大きな威力を持った爆弾に仕上がっているように思える。

密閉にこだわるクルトはパウルの存在が許せなかった。自分とオルガ合わせて「1」のはずなのに、不純物が溶けて混ざり込んでいるように思えたのだろう。



◯静寂 ※後日加筆



◆舞台上の演出について


◯照明 ※後日加筆


◯音と曲


・始まりの時間の流れ


開演前、時計の針の音が響いていた。

2秒に1回より少し遅いような刻み方で、これが秒針か否かはわからないし、仮に逆回りに動いていたとしてもわからない。ただ普通に時計回りの秒針だとすると、この舞台はかなりゆっくりとした速度で始まることになる。

2つの矢印が大きく動き出す前、まだほぼ静止している家族の枠の中に収まっている状態から始まるのだ。


・使用楽曲と心情表現 ※後日加筆


・曲名について ※後日加筆



◇終幕


正反対の立ち台詞から始まり、時に傾き静止しながら長く引き合いが続き。

2つをかろうじて繋ぎ止めていた重石が砕かれ、中間点が焼き切れた瞬間に互いの方向に一気に加速し突き抜けて舞台は幕を閉じるのだ。


遠くからサイレンが聞こえてくる。何に対する警告なのか。原作を最初に読んだ時、何かが落下しそのまま爆発した表現だなと感じた。その時はそれだけだったし舞台を見てから考えようと思っていた。


43秒。この数字もまた知っている人間であればすぐにわかるのだろう。194586日日本、広島に原子爆弾が投下された。爆弾の名は「リトル・ボーイ」。重さは4トン。戦闘機でボタンが押され、空中で爆発するまでが43秒であった。地上の無機物も生物も関係なく全て吹き飛ばして更地にし、不毛の地にする凶悪な原子爆弾である。

そしてクルトは、その様を己の誕生と重ね合わせ爆発の際に生じたキノコ雲の様子を事細かに描写する。

後には静寂と炎が生まれた。クルトは真っ当な人間として生まれ直したかったのではない。地上に「平和」と「協調」をもたらし、不浄を洗う炎となりたかったのではないか。

原子力が本来人類の進歩のために発見されたのにも関わらず、結果的に大量殺人兵器として「平和のため」に使用されてしまったことが、どことなくクルトの熱量の方向性と通ずるような気がする。


ここで一つ気になる言い回しがある。自分は母親からよろよろ出てきて(動いて)鼻先をゴールに向けたと。

この話は事実ではない。

彼がずっと覚えていると語っていたこの話はそもそも始まっていなかった。クルトの中で彼自身は生まれてすらいなかったのだ。産まれた時からずっと逆流し続け、その先の誕生に到達する。その目的のためだけにこの物語は動き出しもせずに約100分もの間胎動し続けるのだ。


マッチに火をつけ、床に落とす。光が消え、世界が暗闇に包まれて。まるでそのまままた同じ舞台が始まりでもしそうだった。しかしそうではない。

宇宙が暗闇から突然始まったように。彼は舞台の中央で爆発し、確かに生まれ直したのだ。「母なるもの」の元に。



2021.3.29