「火の顔」原作から舞台へ –構造と演出についての一考–

◇はじめに


お久しぶりです。海藻です。

いつぞやのツイートで「普通」の線を踏み越えたら一言でまとめられなくなると言った、一言でまとめられなくなった部分が以下になります。


事前に「火の顔」新野守広氏翻訳の原作と、吉祥寺シアターで舞台を数回拝見したのみとなりますので演出や舞台上の台詞など多少記憶違いを起こしていたりするかと思いますが、ご了承いただけますと幸いです。

原作読了後の感想は舞台演出と密接に関わっていて内容が被りますので、そちら単体の所感などは今回は省きます。


また、ドイツという国に造詣が深くないため宗教や家庭、歴史、一般常識などその辺りもとんちんかんなことを言っていたら誠に申し訳ございません。

観劇2回目なんすわ!なクソ雑魚舞台ビギナーであることもどうかご承知おきください。


最重要

キャストに触れる意図がここにはありません。公開当時の時代背景や原作者の人生にも触れません。

話の中で、舞台の上で何が起きていたのか。私がそれをどういう構造だと解釈したのかの一点のみとなります。

正しい解釈でも多角的な考察でもございません。

ど素人のただのぼやきに留まるということは念頭に置いていただけますと幸いです。


上記よろしければ以下にどうぞ。




 登場人物を取り巻く関係について

◇クルトとオルガ

姉弟を繋ぎ止めるもの


◇クルトについて

◯クルトと母、生まれた時の話

◯クルトと父

◯クルトの部屋

・独裁者

Kurt Cobain

Banksy


◇オルガについて

◯光

◯オルガとパウル

◯スクリーンの女

◯最後にパウルを選んだオルガ

◯オルガの部屋

・退屈そうな少女

・オルガの机


◆家族の記号について

◯舞台上の配置

◯ハンスとパウル

◯母親について ※後日加筆


◆「炎」について

ヘラクレイトスの哲学 ※後日加筆

◯爆弾の作り方

◯静寂 ※後日加筆


◆舞台上の演出について

◯照明 ※後日加筆

◯音と曲

・始まりの時間の流れ

・使用楽曲と心情表現 ※後日加筆

・曲名について ※後日加筆


◇終幕





◆登場人物を取り巻く関係について


◇クルトとオルガ


2人で放火に向かい2人で両親を殴り殺したこの姉弟は一見「思春期」をこじらせて煮詰めてしまった似た存在のように感じてしまう。最後の姉の行動が裏切りだという感想もあるだろう。

しかし、私個人としては真逆の方向に動き続ける正反対な存在であるように感じており、その矢印に当てはめると様々な行動に合点がいく構造となっている。


クルトが繰り返し誕生と自分が生まれた時の話をしたがるのに対し、オルガはそんなことどうでもいいと、「最悪の時期」とまで表現し幼い頃の話を嫌う。

思春期という位置から誕生(過去)に向かうのがクルトで変化(未来)に向かうのがオルガ。ただオルガの望む未来というのは必ずしも「大人」になることではない。親を煩わしく感じ、外に変化を求め続けている。

クルトは成長に伴う変化を忌避して、オルガは変化を求めて、方向は真逆に引っ張り合っているのに両親に代表される「大人」を嫌うエネルギーだけは合致している。


オルガはあくまでもクルトを弟、または共犯者、もしくは変化をもたらす者として認識しているように見えるが、クルトは違った。そもそもオルガを他人として認識していない。部外者でも家族でも姉でもなく、自らと存在を分け合った自分自身として、合わせて「1」だと考えている。彼にとってオルガとのセックスは性処理ではなくて一旦ばらばらになって1つの存在に溶け合うための、ある種神聖な儀式のように映っていたのかもしれない。


この姉弟の生きているスピードは逆方向に同じであるように思う。2人が話している時に、両親とパウルの動きがスローになるシーンがあった。酒を酌み交わす男たち、身繕いをする母親、舞台奥と手前では全く別の速度で世界が動いていたのである。



姉弟を繋ぎ止めるもの


本来別方向に動くものが手を繋ぐ必要はない。この2人を繋ぎ止めるものはなんなのだろうか。

クルトとオルガは正反対の運動をしており、恐らくより速度が近い、または距離が近すぎると停滞する。停滞とはすなわち静止である。この2人のちょうど真ん中には動かない何がいるのである。

この話の中で動かないものといえば家、両親。また、クルトは誕生に相当なこだわりを持っていることから、同じ人間同じ場所から産まれてきたオルガに執着していたとも考えられる。

最後に2人の運動がそれぞれの方向に一気に加速してしまったのは、両親を殺害することにより自らこの楔を引き抜いてしまったからではないだろうか。

クルトの言う「ボルト」は皮肉にも両親の存在であったわけだが、彼はそれを認識できず壊してしまうのだ。

死体となった両親は動かずベッドに寝たままでもいいわけだが、わざわざ動いて舞台上から退場したのは一家離散、姉弟の別離の暗示だったのかもしれない。



◇クルトについて


彼を思春期の一言で表すのは難しい。結局のところ彼は何を望んだのか。

彼は両親を「考えることを放棄している」と表現し、時に「あいつら」と呼ぶ。止まったものは炎を有していない、死んでいる。彼にとって両親は動き回る死体のような存在だった。

実際に、父親は積極的に新聞を読み知識を得ようとしているが目が滑っていっているだけで「わからない」「どういうことだ」と頻繁に言う。死人に知識は役に立たないのだ。

クルトは、このまま彼らの言いなりに成長すれば、自分も姉もそのような冷え切った存在になってしまうかもしれないという漠然とした恐れに焦っていたように見える。



◯クルトと母、生まれた時の話


原作読了時彼について最も印象に残ったのは、彼の言う「生まれた時の話」と母親のそれの食い違いである。クルトは繰り返し覚えていると語るのだが、ずっと「ない話」をしていることになる。逆子だった彼は生まれた時からすでに誕生に向かって逆流していたのかもしれない。

お化け屋敷の話だけが唯一母親の記憶と合致している。外に出た時に真っ暗だったのは彼が目を閉じていたから。チカチカした光を感じたのは瞳孔を照らされていたからである。

目も口も閉じたまま逆位置で生まれてきた子ども。「今もあのときのまま」という言葉通り、彼は密閉されたまま絶えず逆行し続けていた。


その時を覚えているというわりには、姉の身体の感触に驚き「忘れてしまった」と言う。どうやらはっきり記憶にあるのではなく、そうであったに違いないという理想や思い込みで上塗りしてしまっているようだ。



◯クルトと父


クルトは親を疎み関わりたがらないが、母親に関してはまだ会話をしたり体に触れさせたり、拒絶の度合いが低いように感じる。同性である父親という存在は彼にとって自分の行く末、このままではいつか到達してしまう死地のように見えていたのだろうか。オルガは真逆で、母親に対する拒絶が顕著である。


だが、仮にクルトが大人になる道を選んだとしたら父親と同じになっていたのかもしれないと思う箇所があった。売春婦殺害事件に大きく興味を示し、眠りもせずに新聞をよむ父親と放っておかれる母親。一方でこれを読まなきゃいけないと本を読み続けるクルトと放っておかれるオルガ。忌み嫌う大人と似た部分があるのである。

クルトの方面に強く引かれる時、オルガは停滞してしまう。また、世の流れに置いていかれたくないという消極的な理由ではあるものの、かろうじてWISSEN(知識)にかじりつく父親とそれについていけない静止した母親。内情はそれぞれ異なるにせよ、状況と配置だけはやけに似通っている。



◯クルトの部屋


・独裁者


舞台上殊更に目をひき、しばしば場面の象徴のように照らされるヒトラーの肖像と鉤十字の腕章。

言わずもがな独裁者といえば、というような独裁の象徴である。

この肖像に最初に大きくフォーカスが当たるのはどこか。クルトが対立する2つの力に言及するシーンであり、オルガと並び立ち歩く際にはヒトラーの演説録音音声が再生される。

その後パウルに出て行けと命令するシーンでは、クルトの言うことをオルガが復唱するような構図になっている。オルガは他人の命令をそのまま武器として使い、異なる要素を上乗せして攻撃するのだ。

これは独裁者と独裁を受ける者の縮図であるようにも見える。ヒトラーは人心を掌握するのが上手かったと言われており、暴力や恐怖による抑圧を根底に敷きつつ巧みな演説とアメで人々を洗脳し懐柔した。

オルガがクルトに反発しないのはこういった一種の魅力があったからかもしれない。

このパウルとの対立シーンを見た時に違和感があり、原作を読み返したところなんとクルトがいない。ただオルガとパウルの会話が書いてあるのみである。ここにおけるクルトの台詞というのは実際にその場で言っているのではなく、もうオルガが彼の統制下に置かれ半分彼の言葉で喋っていたという風に理解した。


舞台も終盤、取り残されたオルガと叔母の元で生活するクルトが手紙のやりとりをするシーンがある。

本来関係のないはずのヒトラーにここでもピンスポットが当たっているのだ。そしてオルガは枕を抱えたまま動けない日々の様子を吐き出し続ける。クルトはその場にいないはずなのに、彼に支配され続けているのだ。

そしてオルガの手紙が終わり、舞台奥からクルトが歩いて出てくる。そのタイミングでスポットが消える。まるで入れ替わって出てきたかのように。


さて、このヒトラーの要素は突然降って沸いたわけではない。

酔っ払ったパウルがふらふら歩き回り酒を飲み、姉弟に絡んでくだを巻くシーン。テーブルの上に立ち、主役のようなスポットライトを浴びるクルトにパウルが「ハイル・ヒトラー」のポーズをふざけて取るのだ。お前はちっぽけでくだらない独裁者気取りだと揶揄したのかもしれないが、酔っ払いの行動の中でこの敬礼だけが変わらずしっかりと存在していたのは、舞台上に独裁者が誕生したことを示唆していたとも考えられる。


公演日程の途中から、最後にクルトがガソリンタンクを取りに行く際に肖像を故意に倒す動きが定着していたようである。あの行動はただ物質としての肖像画を衝動でなぎ払ったのではない。

あれはオルガが出て行ったことによってもう独裁者でいる必要がなくなった、独裁を敷く相手がいなくなったという象徴の消失。もっと言えばオルガが完全に別個体であり自分の支配の下から逃げ出したことを自覚した瞬間である。独裁は相手がいなければ成立しないのだ。

もしくは、彼が初めてそのシンボルを認識して直接触れたことを考えると、自分はヒトラーとは違うという大きな主張の表れでもあったのかもしれない。自分は負けない。自分は死なない。躊躇なく爆発し必ずやり遂げてみせると。


Kurt Cobain


ベッドの脇に置かれた男性の白黒写真。これはアメリカのミュージシャンKurt Cobainのものである。

名前がクルトと同じであることは見てわかるのだが、彼は若くして自ら命を絶った(と言われている)伝説のロックスターであり、そして写真もただの写真ではない。これは彼の死後に作られた追悼Tシャツに使われている、象徴的な写真なのである。


また彼の所属していたバンドはNirvanaといい、仏教用語の「涅槃」に由来する。バンド名決定の理由は意味重視ではなく、響きの美しさに惹かれたからと言われている。こちらのKurtもまた、無意識下で「死」にある種の美しさや安らぎを感じていたのかもしれない。


彼が残した遺書には一部次の言葉が綴られていた。"it's better to burn out than to fade away."

もしKurt Cobainを知っている人間が火の顔のストーリーを全く知らずに劇場に足を運んだとして、あの写真を見た瞬間にクルトの死を予感する。そんなことがあるかもしれないと思うだけで背筋が震え口角が上がってしまうのであるが、個人的な感想は一旦脇に置いておく。



Banksy


爆弾を作るためだろうか、様々な実験用具が置かれた棚の上にバンクシーのアートが飾られている。

花束を投げようとする男が描かれているものと、五輪から赤の輪を持ち去る男が描かれた2枚である。


1枚目。本来この姿勢で投げるものといえば火炎瓶、手榴弾催涙弾等おおよそ穏やかでないものばかりである。破壊を撒くその手で平和を投げろという非暴力、平和へのメッセージなのか。はたまた暴徒(批判の意図ではなく)は花束(平和)を投げるつもりで火炎瓶を投げている、平和を掴むには力を以って巨悪を打ち倒さなければという思いで武器を投げているという皮肉にも取れる。


2枚目。オリンピック、パラリンピックといえば平和の象徴である。その裏側や実情はさておき、あらゆる人種、あらゆる立場の人々が一堂に会し共通のルールの元でフェアに競う「平和の祭典」だ。

絵の中ではそんな五輪から男が赤を持ち去っている。

クルトが赤()をもって平和を脅かしているということなのだろうか。


個人的には2枚とも、協調や平和に向かって歩を進めているはずのクルトに対する強烈な皮肉であるように感じるのだ。

また、バンクシーの作品は受け取り手によって解釈が大きく異なるように思う。都合よく解釈して盲信することが可能ということである。これは後の要素にも絡んでくるが、ひとまず先に進む。


バンクシーの作品にタイトルが付けられているか確認が取れなかったが、もし正式なタイトルがあったら申し訳ない。



◇オルガについて


◯光を灯せないオルガ


両親がベッドサイドの明かりを、パウルが懐中電灯を使うのに対してクルトとオルガは人工の光を扱わない。

特にクルトが光をもたらす時はマッチにしろライターにしろ必ず炎を使い、人工の(冷たい死んだ)光は使わない。

オルガはそもそも自ら光を灯すことができない。クルトの炎に照らされ、パウルの電灯に照らされながら、自ら生み出すことをしない。クルトに置いていかれた日、どこに行けばいいのと言った。明かりがないと見えない。行き先がわからないと動けないからである。

それでもオルガは光を灯すことができない。



◯オルガとパウル


オルガの行動は一貫性がないように見えて、常に光を求めているように思う。

彼女が必死に探しているのは変化。親から、家から出たい。この囲いの中から出たい。クルトに比べると、こちらの方が一般的な思春期という感じがする。


そんな彼女にとってその変化、非日常の方向にトップスピードで走っていたのがパウルであった。パウルは両親と違って止まっていない。バイクは動いている。動いている機械は熱く、生きているのだ。親の囲いの外で生きるパウルは全く「違うスピード」で動いていたのである。

オルガはバイクに乗ってるからパウルを好きになったんじゃないと言ったが、本当にそうだろうか。彼が暴言を吐いて一時的にオルガと決別する前に、バイクが売り払われるという出来事があった。

散歩に行かないかという誘いをはぐらかし、売却が発覚すれば、その場しのぎの嘘でそこまで怒るだろうかというほどオルガは癇癪を起こすのだ。

自分の向かいたいベクトルに加速をつけるバイクは、彼女が思っていたよりも大きな要素だったのである。

その後転がるようにして2人の関係は悪化していく。


ただしパウルは「スピードを感じるのって最高」と言い、同方向に進むオルガを加速の要素として扱っているように思う。また、親との関係が良くない彼にとってこの家族の両親というのは理想の家庭だったのかもしれない。



◯スクリーンの女


オルガの語る話で印象的なのが映画館のエピソードである。もしかしたら実際この映画があるのかもしれないが、知識不足で全容がわからなかったため彼女の言及した範囲で考えてみる。

普通に映画を観ていて、普通に何も起こらなかった。パウルがキスをしてくるまでは。スクリーンの上の女はどんどん動きが鈍くぎこちなくなり、ついには静止してしまう。

この速度の変化は、オルガが急激にパウルの方に引っ張られたからではないだろうか。とするとこの女というのは過去に伸びる矢印の方向にいた存在ということになる。そして止まったまま跡形もなく燃えてしまった。風もないのに必死に押さえていた帽子は、オルガが感じていた両親からの窮屈な干渉だったのだろうか。クルトやパウルに振り回されているように見えて、彼女もまた自分の進むべき方向にたしかに歩を進めていたのだ。

オルガがパウルとセックスをしても何も変わらなかったと喚くのは、それよりも劇的なこの場面があったからではないかと思う。



◯最後にパウルを選んだオルガ


両親が死に、楔も取れたオルガ。明かりが灯ることもなく静寂で満たされた密閉空間に、今度こそどうしたらいいのかわからないようだ。

そこに自転車のベルの音が響いて一筋の光が差す。そしてパウルとのやりとりが始まる。最初はクルトの言葉を忠実に繰り返し、彼を追い出そうとするのだが最後に「わかった」と叫んでしまった。ぎりぎりの状態からはみ出た決壊の始まりである。

そして直後、なぜ余計なことを言ったのかと問うたクルトに今度は「わかんない」と返す。2人のかろうじて噛み合っていた歯車が狂いだし、その綻びは決定的なものとなってしまった。



◯オルガの部屋


・退屈そうな少女


彼女を象徴するような絵画が舞台上に置かれていたので少し触れさせてもらう。

「夢見るテレーズ」、フランスの画家バルテュスが描いた少女の絵画である。気怠げな少女が無防備に下着を晒し、どこかぼんやりした様子で物思いに耽っているような。バルテュスが何を描きたかったのか、隠されているかもしれない意味等にはここでは触れない。

この絵画には、メトロポリタン美術館に展示される際に性的だとか相応しくないとかで、1万人を超える撤去要請の署名が集まったという過去がある。子どもを性から守りたい、ある種子どもを汚したくないといった「大人」の主張がほとんどであったようだ。

対して額縁の中の少女は我関せずといった様子で、下着が見えていることに気付いているかすらわからない。「大人」が勝手に破廉恥だなんだと騒ぎ立て、問題を大きくしていることを鬱陶しそうにしているようにさえ見える。

まるであれもこれも性的だと言って回る方がよっぽど気持ちが悪い、私の身体は私のものだ、子ども扱いするなとオルガが主張しているようだ。



・オルガの机


部屋に置かれた彼女の机には、ごてごてと様々なイラストや写真が貼られている。その全てをきれいに観察することは難しかったのだが、人間の顔やバストアップが多く、特に目のイメージをかなり強く感じた。

また、この机はどうやら鏡台のようなのだが顔の輪郭も写さないほどに濁っている。そして人の目がその周りを取り囲む。

オルガは自分で自分を見ることができない。他人の目によってしか存在を確認できないのだ。実際に自分が

大人かどうかを母親に尋ねたりしている。


クルトは他人に影響されるな、断ち切れと主張する。他人の目に映る自分など所詮他人であると。だがこの舞台の上で最も変化を求め、外部からの干渉を気にしているのはオルガのようである。

彼らは根本的に真逆なのだ。



◆家族の記号について


◯舞台上の配置


冒頭、クルトは上手客席側で最初の台詞を発する。「生まれた時」の話をしながらマッチで火を灯すのである。この時オルガはクルトより下手側、両親はその奥でそれぞれ父親が上手側、母親が下手側に立っている。全ての始まりはこの位置だった。

この四角形は食卓の座り位置にも共通しており、この家族が家族として存在するための重要な配置なのではないかと思う。


しかし、両親は寝室でもその並びで寝ているのに対して姉弟はどうだろうか。クルトの部屋は下手でオルガの部屋は上手である。

パイプが橋渡しをしてはいるが、両親の寝室と家族の食卓が置かれた奥側、クルトとオルガの部屋がある客席側で関係が致命的なねじれを生んでいるのだ。舞台が始まった時からずっと、この家族はひずみを抱えながら進んでいくのである。


この歪みが決定的に現れたのが、父親がクルトに叔母のところに行くよう説得するシーン。四角形の頂点が1つ欠ける。家族の一角が崩れることを象徴するように4つの椅子がばらばらに投げ出され、テーブルは舞台にひっくり返された。かろうじて家族の形を保っていた食卓の破壊である。もうこの家族は元には戻らないのだ。



◯ハンスとパウル


子どもたちや妻にはそこまで大きな反応を示さず、なんなら殺人事件と新聞の方が興味がありそうな父親ハンス。

そんな彼が唯一はしゃいで話し、酒を酌み交わすのがパウルである。ハンスはパウルに男同士だ、と言いクルトを思春期と呼ぶ。この差はかなり興味深く、彼の舞台上の振る舞いにも現れているように思う。

舞台では父親は名乗らなかったような気がしたのだが、彼にはハンスという名前がある。パウルに対してはハンスと呼んでくれと、父親の記号を捨てるのだ。


パウルと話したり酒を飲む時のハンスは上手側奥の「父親の席」に座らない。テーブルの上や他の椅子に座っている。反対に、父親の席に座っている時はハンスの呼びかけに応じない。


この父親の記号の有無が最もわかりやすいのが子どもの起こした事件に対する反応である。

クルトの炎が発露したスズメ(原作ではツグミ)の死体発見の際、父親はそれぐらい気にするなと、クルトはそんなことはしないだろうと言って母親の主張に取り合わない。この時も鞄を父親の席に置いている。

学校に放火をした際もお前はまだましなどと茶化して、そこまで大きな反応をしないのだ。しかし、パウルの持ち物が燃やされた時。この時の彼は父親ではなくハンスである。ハンスは怒り狂い、テロには屈しないと叫ぶのだ。



◯母親について ※後日加筆



◆「炎」について


ヘラクレイトスの哲学 後日加筆



◯爆弾の作り方


密閉。ただ密閉すること。ここが最重要だそう。

爆弾そのものもそうだが、クルトは何と言っただろうか。目も耳も口も閉じてやれ、と。これが人体における密閉以外の何なのか。耳から煙を出し口から火を吹く、人の形をした爆弾だ。

また、終盤では家そのものが爆弾になっている。窓もドアも閉め切り、クルトは誰も入れないと言い続ける。「失敗」しかけたのは密閉状態が綻びたからだが、結果としてはパウルとオルガという異物の排除にも成功し、かなり大きな威力を持った爆弾に仕上がっているように思える。

密閉にこだわるクルトはパウルの存在が許せなかった。自分とオルガ合わせて「1」のはずなのに、不純物が溶けて混ざり込んでいるように思えたのだろう。



◯静寂 ※後日加筆



◆舞台上の演出について


◯照明 ※後日加筆


◯音と曲


・始まりの時間の流れ


開演前、時計の針の音が響いていた。

2秒に1回より少し遅いような刻み方で、これが秒針か否かはわからないし、仮に逆回りに動いていたとしてもわからない。ただ普通に時計回りの秒針だとすると、この舞台はかなりゆっくりとした速度で始まることになる。

2つの矢印が大きく動き出す前、まだほぼ静止している家族の枠の中に収まっている状態から始まるのだ。


・使用楽曲と心情表現 ※後日加筆


・曲名について ※後日加筆



◇終幕


正反対の立ち台詞から始まり、時に傾き静止しながら長く引き合いが続き。

2つをかろうじて繋ぎ止めていた重石が砕かれ、中間点が焼き切れた瞬間に互いの方向に一気に加速し突き抜けて舞台は幕を閉じるのだ。


遠くからサイレンが聞こえてくる。何に対する警告なのか。原作を最初に読んだ時、何かが落下しそのまま爆発した表現だなと感じた。その時はそれだけだったし舞台を見てから考えようと思っていた。


43秒。この数字もまた知っている人間であればすぐにわかるのだろう。194586日日本、広島に原子爆弾が投下された。爆弾の名は「リトル・ボーイ」。重さは4トン。戦闘機でボタンが押され、空中で爆発するまでが43秒であった。地上の無機物も生物も関係なく全て吹き飛ばして更地にし、不毛の地にする凶悪な原子爆弾である。

そしてクルトは、その様を己の誕生と重ね合わせ爆発の際に生じたキノコ雲の様子を事細かに描写する。

後には静寂と炎が生まれた。クルトは真っ当な人間として生まれ直したかったのではない。地上に「平和」と「協調」をもたらし、不浄を洗う炎となりたかったのではないか。

原子力が本来人類の進歩のために発見されたのにも関わらず、結果的に大量殺人兵器として「平和のため」に使用されてしまったことが、どことなくクルトの熱量の方向性と通ずるような気がする。


ここで一つ気になる言い回しがある。自分は母親からよろよろ出てきて(動いて)鼻先をゴールに向けたと。

この話は事実ではない。

彼がずっと覚えていると語っていたこの話はそもそも始まっていなかった。クルトの中で彼自身は生まれてすらいなかったのだ。産まれた時からずっと逆流し続け、その先の誕生に到達する。その目的のためだけにこの物語は動き出しもせずに約100分もの間胎動し続けるのだ。


マッチに火をつけ、床に落とす。光が消え、世界が暗闇に包まれて。まるでそのまままた同じ舞台が始まりでもしそうだった。しかしそうではない。

宇宙が暗闇から突然始まったように。彼は舞台の中央で爆発し、確かに生まれ直したのだ。「母なるもの」の元に。



2021.3.29